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「リーガル・ハイ」「デート」の脚本家・古沢良太が語る、ヒットを生む企みの創作術

2017/05/08
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漫画でやりたかったこと

「漫画は数年前に、雑誌で連載したものをまとめてもらいました。一所懸命描いたつもりですが、漫画はワンカット描くだけでもすごい労力がかかると改めて知った。漫画家って本当にすごい人たちだと身にしみてわかりました」

『ネコの手は借りません。』では、駆け出し時代の本人もかくや、と思わせる脚本家や、新入りAD、ヘアメイクと、テレビドラマ制作の現場で働く人たちを描いている。作品は見知っていても、それを成立させるために奔走する裏方仕事の実態はなかなか知られることがない。自分のことを含め、そうした人たちへの関心は以前からあったという。

 

「テレビドラマは大勢の人によってつくられるもので、それぞれの立場でかかわった人が、『これは自分の作品だ』と思っているはず。僕もそうです。作品を純粋に楽しんでほしいと思ういっぽうで、スポットライトが当たらない人たちのこともわかってほしい。漫画で取り上げるにあたっては、そういう気持ちもどこかにありましたね」

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少しは褒めてくれないかな、と

 脚本はテレビドラマや映画におけるベースではあるものの、実際に映像をつくっていく過程では、脚本家のイメージから離れていく部分もある。それに、私たちが映像作品を享受し語るときは、まずもって出演者か監督のことを思い浮かべる。が、考えてみれば脚本家だってもちろん、「これは自分の作品だ」ともっと声を上げてもおかしくない。

 おもしろいのは自分の手柄だ! と、声高く主張したい気持ちはないだろうか。

「ないことはないです。サッカーでアシストを決めるミッドフィルダーの気持ちに近いんじゃないかな。前線に出したスルーパスをフォワードが決めて点が入ると、点を決めたフォワードを中心に喜びの輪ができる。アシストしたミッドフィルダーからすれば、チームの得点はもちろんうれしいけれど、俺も少しは褒めてくれないかなとどこかで思っているんじゃないですか」

 

脚本家として爪痕を残す「セリフ」を突き詰める

 脚本家の秘めたる自己顕示欲だ。でも、それをみずから主張するのもちょっと違う。複雑な心境が付きまとうのである。

 ただ、脚本家はすこし恵まれている面もあるのでは。作品の内容自体に「自分らしさ」を染み込ませていくことができそうだから。

「そうですね。脚本家という立場で何らかの爪痕を残そうとするなら、まずはセリフです。展開とか構成でも個性や技術は発揮できるけれど、それらをいちばん出しやすいのは、セリフ。実際、倉本聰さんや山田太一さんのドラマは、セリフをちょっと聞いただけで、すぐに脚本家の存在が浮かび上がります。そうありたいと思うし、そのあたりをもっと突き詰めていくのは、自分自身の課題でもあります」

 

意味のない、でも面白いシーンだけで書いていけたら

 古沢作品の場合、話の構成、ストーリーの展開にも個性が色濃く出ていると感じる。どんなときも一本調子ではなく、濃密で、話を進めるためだけの場面というものがない。

「そこは心がけていますね。話の構成を、できるだけジグザグするようにつくっている。右を向いてこんなことが起きて、左を向けばまた違ったことが起きている、というのを繰り返しながら、大きな展開につなげていきたいといつも思っています。

 話の展開上、段取りのシーンというのは生じてしまうもので、じゃあそこはぎゅっと縮めて済ませようというのがふつうの処理のしかただろうけれど、僕はそこも書き込んでいってしまう。と、そのシーンがだんだんおもしろくなってきて、たいして意味のないシーンがやたら長くなったりしてしまうんです」

 

 それは思い当たる。たとえば「リーガルハイ」で、堺雅人演じる弁護士はことあるごとに、これ以上ないほど冗舌に人の悪口を並べ立てる。そんなに長くなくたってストーリー進行には支障ないはずだが、しゃべっているうちに歯止めが利かなくなっていくその様子そのものが、いつしかドラマの大きな見どころになっていく。

「そういう意味のない、でもおもしろいシーンだけで書いていけたら、理想的かもしれない。起承転結のうち、『起』や『結』だけが盛り上がるのはいやなんです。できれば『承』のところをおもしろく書いていきたいです」