いまから30年前のきょう、1987(昭和62)年5月10日、帝銀事件で死刑が確定していた平沢貞通(さだみち)が収監先の東京・八王子医療刑務所で病死した。95歳。

平沢貞通 ©共同通信社

 帝銀事件は終戦直後の1948年1月26日、東京都豊島区長崎町の帝国銀行椎名町支店で起こった強盗殺人事件である。このとき、行員ら16名が、都の衛生課員を装った人物に、赤痢予防薬と欺かれ青酸化合物入り液体を飲み、うち12名が死亡した。捜査は難航し、戦時中の陸軍の731部隊の関係者が洗われるなどしたが、事件発生から7ヵ月後、平沢が北海道小樽市で逮捕される。平沢はいったんは自白したが、公判では否認。1950年に一審で死刑判決、55年に最高裁で確定後も再審請求を続けたが、亡くなるまでついに認められることはなかった。再審請求は平沢の死後も遺族によって続けられる。2015年には20回目の再審請求がなされ、このとき東京高裁に提出された鑑定書は、昨年『もうひとつの「帝銀事件」 二十回目の再審請求「鑑定書」』(講談社選書メチエ)と題して公刊された。

1974年に開かれた平沢の個展 ©共同通信社

 平沢はもともと画家で、戦前は帝展に無鑑査で出品が認められるほどの地位にあった。獄中でも絵を描き続け、その数は亡くなるまでに2000点を数えたという。画材も不自由したとみえて、よれよれのボール紙や古カレンダーの裏側に、古い和紙を貼り合わせて絵の具が浸透するようにしたり、また落款印も丁寧な手書きで代替したりと、さまざまな工夫が凝らされていた。美術評論家のヨシダヨシエは、平沢の描いた画の克明さに驚嘆する。たとえば、1969年の「カチューシャ可愛や」という作品に描かれた大正期の女優・松井須磨子の舞台衣装は、写真で伝えられるのとほとんど変わりがなかったという。ヨシダは「ステージを、二十二、三歳だった平沢貞通がみた可能性はあるが、その特種なステージ写真を、獄中でどうして手に入れたのだろう」と書いている(ヨシダヨシエ『修辞と飛翔』北宋社)。