いまから300年前のきょう、1717年5月13日、オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世が長女を儲けた。のちにオーストリア大公(在位は1740~80年)として権勢をふるうことになるマリア・テレジアである。
女帝として知られるマリア・テレジアだが、父カール6世が亡くなるまでは、皇位を継承するつもりはまるでなかった。皇位継承者となるべき男児を儲けようと、夫フランツ・シュテファンと子づくりに励んでいたほどだ。しかし生まれるのは女児ばかりで、やっと長男(のちのヨーゼフ2世)が生まれたのは1741年と、カール6世の没後だった。
ハプスブルク家は政略結婚によってヨーロッパ中に勢力を広げた。女帝となったマリア・テレジアもこの慣習にのっとり、周辺諸国の王家より妃を迎えたり、娘を嫁がせたりして、各国との関係を深めている。娘たちのなかには、パルマ公国に嫁いだマリア・アマリアのように政治にしきりに口を挟んだあげく、ナポレオン戦争に敗れて国を追われた者もいた。マリー・カロリーヌも同様に強い政治力を持ち、嫁ぎ先のナポリ王国・シチリア王国で、事実上の君主として国政改革に取り組んだ。しかし彼女もまたナポレオンと戦い、一時はイギリスと手を結んで抗したものの、やはり最後は敗れて国を追われている。マリア・テレジアは、カロリーヌを「この娘が私に一番似ています」と評したという(菊池良生『ハプスブルク家の光芒』ちくま文庫)。
マリア・テレジアの娘のうちもっとも有名なのは、何といっても、マリー・アントワネットだろう。アントワネットは、マリア・テレジアの政略結婚の総仕上げとしてブルボン本家に嫁ぎ、のちのフランス国王ルイ16世の妃となった(1770年)。アントワネットがフランス革命に翻弄されながら生涯を閉じたのは、母マリア・テレジアの死から13年後、1793年のことである。