死にゆく子を抱きしめて
この世の何が恐ろしいといって、我が子を失うのではないかという恐怖ほどのものはない。そんな目にあうくらいなら、自分が百回でも千回でも死んだほうがましだ――多くの母はそう思っているのではないか。
いくら「母性は神話にすぎない」と主張する学者から、歴史や科学を引き合いに出されても、我が子を慈しみ育てたことのある母親なら、とうていその説を肯定することはできまい。子どもは無条件に愛おしく、かわいい。少なくとも画中の母はそんな母である。
黒髪の若い母は、涙をこぼすまいとするように固く目をつぶる。子どもの背にまわした左手の美しさが際立つ。病気は重い。どんどん悪化してゆく。神さま、どうか私からこの子を取り上げないでくださいまし。
この絵を見るたび胸が疼くのは、伝統的絵画において腕をだらりと下げた表現が「死」をあらわすからだ。眠りと死を区別する一種の絵画用語で、ピエタ像(十字架から降ろされたイエスの遺骸を抱くマリア)に典型的に見られる。
つまり本作の子どもも、すでに死は定められている。母子ともそれをどこかで感じている。母親の服は喪を想起させる黒だし、子は死装束の白を身にまとっている。
そして――それがまたいっそう哀切なのだが――半ばもう天使となったこの幼い子は、母の嘆きを少しでも慰めようとして、小さな手でそっと母の頬を撫でる。母が子を思う以上に、子はいじらしいまでに母を思い、一生懸命、伝えようとするのだ。ママ、泣かないで。大丈夫だよ。死ぬのは怖くない。
本作が描かれた一八八五年、カリエールの第二子で長男のレオンが三歳で病死している。妻子を描きながら、父もまた心の中で慟哭していたであろう。幼児死亡率がまだ高い時代だったから、夫妻はその後もう一人亡くすことになる。カリエール自身もあまり長生きはできなかった。
カリエールの霧
丸いガラス瓶に、赤い花が2、3本差してある。何の花かはわからない。茶系の靄が画面全体を覆い、セピア色の古い懐かしい写真を見るようだ。現実と幻想のあわいを感じさせるこの独特のトーンは、画家の名を取って「カリエールの霧」と呼ばれた。戸外の明るい色彩にあふれた印象派全盛時代に、彼は内面にこもり色数を減らしてゆき、モノトーンの美を我が物とした。玄人受けはしたが、ついに大衆人気は得られなかった。純文学絵画?
ウジェーヌ・カリエール Eugène Carrière
1849~1906
家族を描いた作品が多いが、ヴェルレーヌやロダンの肖像画でも知られる。
中野京子 Kyoko Nakano
作家・独文学者。最新刊『運命の絵』(文藝春秋)。連載は日経新聞夕刊「プロムナード」(木曜)など。