紀元四世紀。古代キリスト教(まだカトリックとプロテスタントに分裂していない)の神学者聖アウグスティヌスは、悪魔と対決したという。その言い伝えによれば――
悪魔は突如出現し、「人間の堕落を列挙した書」を開いてみせた。そこには聖アウグスティヌス自身、過去に祈りを唱え忘れた事実が記してあった。さぞかし悪魔は得意満面だったろう。だがそのとき義経(ならぬ聖人)、少しも騒がず、二本指を立てると祈祷し直した。たちまち文字は消え、悪魔は耳から火を噴いて怒ったが後の祭り。
みごと悪魔を出し抜いた、このちょっと愉快なエピソードを絵画化したのが、本作だ。初老の聖アウグスティヌスは渦巻状の特大僧杖を握り、真っ赤な法衣に身を固め、ミトラ(司教冠)にも、革手袋をはめた指にも、胸元の大きな飾り留め具にまで金銀宝石をちりばめて、ぎんぎらぎんに派手である。
しかしこうでもしないと迫力満点の悪魔には対抗できなかったろう。丸裸でも悪魔は派手だ。なめし皮のごとき肌は緑色、奇妙な翼には葉脈模様があり、飛び出た眼球はルビーのように赤く、割れたソラマメ風の口からのぞく牙は、鼻同様、湾曲し、頭頂には鹿の枝角、お尻にはもう一つ別の顔を持ち、細い脚に続くのは悪魔の印たる雄山羊の蹄だ。輪の形をした耳からは、怒りの炎がくすぶっている。
聖人VS悪魔のドラマティックなワンシーンのはずが、ぱっと見た目には緊迫感が薄い。それは脇役たちののんびりした態度からきていよう。本来は古代ローマ時代の出来事を、画家は自分の生きている十五世紀に移し替え、誰もが当時の最新流行の服を着ている。橋の上でおしゃべりしたり、くつろいで座っていたり、要するに、彼らには聖人も悪魔も見えていない。
だが我々鑑賞者にはそれが見える。なるほど凡人が日常を送るその瞬間にも、聖なる存在はおぞましい悪魔を撃退してくれているのだ。何とありがたいことだろうか。
■人面疽
お尻にできた人面疽(人面瘡)ですね。ごつごつした脊柱がそのまま鼻になり、尻尾と化しています。どうやって座るのでしょうか? 感情のない冷たい眼はぎょろぎょろ動きそうだし、大きな口は「食い物をよこせ」と叫ぶに違いありません。凄いですね~ 怖いですね~ さよなら、さよなら……もとい、西洋には人面疽という怪異譚はない。これは単なる(?!)悪魔のお尻。
ミヒャエル・パッハー Michael Pacher
1435頃~1498
オーストリア後期ゴシックにおける最重要の画家にして彫刻家。数々の彩色木彫祭壇画で知られる。
中野京子 Kyoko Nakano
作家・独文学者。2017年「怖い絵展」特別監修者。最新刊『名画の謎 陰謀の歴史篇』(文春文庫)