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連載中野京子の名画が語る西洋史

中野京子の名画が語る西洋史――地獄はすり鉢

2017/06/21

地獄はすり鉢

地獄の見取り図(インフェルノ) 1490年、油彩、30×40cm ヴァチカン教皇庁図書館 ©ユニフォトプレス

 地獄はすり鉢状になっている。知らなかった……。  

 日本人だもの、知らなくたって全然困らない。これは十四世紀イタリアのダンテが叙事詩『神曲』で生き生きと(死者の話だから形容矛盾だが)描きだした地獄マップである。物語は地獄巡り。ツアー客はダンテその人、ツアー・コンダクターは彼が敬愛する古代ローマ帝国の詩人ウェルギリウスだ。  

 地獄界は上から順に第九圏まであり、下へゆくほど罪は重い。第一圏はリンボ(辺獄)で、キリスト誕生以前に生まれた人々がいる。第二圏以降は邪淫、大食、貪欲、憤怒、異端、暴力、邪悪ときて、最大最悪の罪は「裏切り」。  

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 ダンテは政争に敗れて故国フィレンツェを永久追放され、『神曲』は流浪の途次で書かれたから、自分を裏切った政敵への恨み骨髄だ。  

 地獄の責め苦の描写は熱がこもっている。地獄の前庭にいる亡者でさえ、何も行動せず日和見主義だったとして蜂や虻に刺されまくるし、第三圏のグルメたちは犬に引き裂かれ、第五圏の異端者は石棺内で丸焼け、第九圏の裏切り者は悪魔にガリガリ齧られる、といった具合だ。  

 あの夢のように美しい『ヴィーナスの誕生』の画家ボッティチェリが、『神曲』の挿絵を大量に制作した(百枚近く現存)。中でも本作がもっとも有名で、ダン・ブラウンのベストセラーミステリ『インフェルノ(=地獄)』で、次のように讃えられている。

「この地図こそ、ダンテの描いた地獄を最も正確にまるごと再現」「漏斗形の巨大な地下空間で繰りひろげられるさまざまな恐怖の光景」「現代の人々さえ、この陰鬱で、残酷で、身の毛がよだつ絵画の前では足が止まる」(越前敏弥訳)。  

 かなり小型の作品なので丸裸の白い亡者たちは豆粒のようだが、ボッティチェリは執拗に、彼らが火に炙られ泥水に溺れて苦しむ様を描く。  

 古今東西、天国より地獄のほうが人を魅了するようだ。

地獄門をくぐって
ナチスの強制収容所のゲートには、「働けば自由になる」とスローガンが記されていた。一方ダンテの地獄門は、「ここをくぐる者、いっさいの望みを捨てよ」。ダンテがそこを通ると、冥界の川アケローン(=嘆きの川)が滔々と流れていた。異教のギリシャ・ローマ神話の登場人物、老いた渡し守カロンが、舟を漕いで近づいてくる。ダンテを見て、「生きた魂は別の道を行け」と怒鳴るが、けっきょくは――キリスト教への忖度か?――乗船を許す。

サンドロ・ボッティチェリ  Sandro Botticelli
1445〜1510
メディチ家の支援を受けて才能を開花。しかし晩年は宗教運動にのめり込み、画風も変わる。

中野京子 Kyoko Nakano
作家・独文学者。最新刊『運命の絵』(文藝春秋社)。連載は日経新聞夕刊「プロムナード」(木曜)など。

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