一五五四年、ジェーン・グレイ、十六歳。結婚してまもないので、首置台をさぐる白い手の指輪が真新しい。
ヘンリー八世の血を引くばかりに政争の具とされた彼女は、何も知らされぬままイングランド女王の座に据えられ、運命から逃がれ得ず若い命を落とした。異名は「九日間の女王」。十日目には反逆者だった。
十九世紀フランスの歴史画家ドラローシュはきわめて演劇的な空間構成の中に、凛として美しい女王の悲劇を、目の前でドラマが起こっているかのように描き出した。留学時に本作を見た夏目漱石は、『倫敦塔』でその強烈な魅力についてつぶさに語っている。
絵の運命もまた数奇だった。一八三四年にパリの官展で発表されて大人気を得たのだが、富豪のロシア人に購入されイタリアの私邸に飾られたため、人々の記憶から薄れてゆく。二十年後の富豪の死でイギリス人に転売されたが、ロンドン・ナショナルギャラリーに寄贈されたのは一九〇二年。この頃になると印象派全盛で、遠い昔の王侯の世界をロマン主義的に捉えた画風は過去の遺物のごとき扱いだった。十数年後にはテート美術館に移され、地下に保管。そこへテムズ川の氾濫が襲い、それから何と半世紀近く、ジェーンは消失したものと見做された。
奇蹟は一九七三年に若い学芸員がテートに赴任したことで起こる。彼は放置されていた大量のロール状のキャンバスを片端から開けていった。そこにジェーンが無傷で眠っていたのだ。ナショナルギャラリーへもどったジェーン人気は凄まじく、絵の前の床がすり減って修理が必要となるほどだった。
それでも専門家の評は冷たい。プッチーニのオペラ『蝶々夫人』への評価と似ている。お偉い批評家が甘すぎると貶しても、人々はヒロインの魅力に喜んで屈するのだ。それこそが作品の底力である。
ジェーンは今夏から始まる『怖い絵』展の目玉作品。ぜひ本物に触れてほしい。
■血を吸う藁
かつてヨーロッパでは、火炙りや絞首に比べ斬首は苦痛が少ないと信じられ、もっぱら貴人のための処刑法だった。ここでは膝をつくのに分厚いクッションまで用意され、最高位ランクの死刑囚であることが示される。とはいえ残酷さに変わりはない。ギロチンが発明される以前は、このように鉄輪で固定された木製の首置台へ頭を載せ、首斬り人の腕前に身をまかせた。台の周りに敷きつめられた藁束の用途も戦慄的だ。
ポール・ドラローシュ Paul Delaroche
1797~1856
英国史を主題にした作品が多く、『ロンドン塔の王子たち』『クロムウェルと棺の中のチャールズ一世』も著名。
中野京子 Kyoko Nakano
作家・独文学者。特別監修の「怖い絵」展は2017年夏に兵庫県立美術館(神戸)、秋に上野の森美術館(東京)で開催。
http://www.kowaie.com/