いまから80年前のきょう、1937年7月12日、パリ万国博覧会のスペイン館が、万博の開幕(5月25日)から7週間後、ようやく開館した。これにともない同館の入口ホールで、スペイン出身の画家パブロ・ピカソの手になる壁画『ゲルニカ』が公開された。

 スペインではこの前年の1936年2月、民主路線をとる人民戦線政府が誕生していたが、同年7月、植民地モロッコでフランコ率いる駐屯軍が蜂起したのを発端に、軍部・右派勢力による反乱がスペイン各地で勃発、内戦へと発展する。人民戦線政府はパリ万博のスペイン館を、右派勢力による横暴を国際社会に向けて告発する場と位置づけ、そこで展示する作品を、ピカソやミロなどパリ在住のスペイン人芸術家を中心に依頼する。

 人民戦線政府を支持するピカソは依頼を快諾するも、当初は、アトリエでの画家とモデルというきわめて個人的なテーマで描くつもりでいたという。だが、そこへ来て1937年4月26日、フランコ側を支援するナチス・ドイツの空軍が、スペイン・バスク地方の都市ゲルニカを爆撃し、多くの市民が死亡するという事件が起きる。この報を受け、ピカソは壁画のテーマをゲルニカの悲劇へと改め、5月初めより1ヵ月をかけて完成させた。

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『ゲルニカ』は表現が抽象的だったため、もっとリアリスティックな絵を期待していたスペイン館の一部関係者は落胆したという(荒井信一『ゲルニカ物語―ピカソと現代史―』岩波新書)。だが、この絵を見た人々の多くは、戦争の恐ろしさ、反戦へのメッセージを間違いなく読み取った。

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『ゲルニカ』は、11月25日にパリ万博が閉幕すると、翌38年から39年にかけて、スペインへの救援活動の一環としてイギリス各地での巡回展で公開され、さらに39年5月にはアメリカに渡った。同年7月、スペイン内戦に勝利したフランコが独裁政権を成立させ、9月にはヨーロッパで第二次世界大戦が勃発する。そのため『ゲルニカ』はこのあと40年以上にわたりアメリカにとどまり、ニューヨーク近代美術館で保管される。大戦後の69年、ピカソはフランコ政権より『ゲルニカ』の“返還”を打診されるも固辞、翌70年には「スペインで公共の自由が確立したときに返還する」と条件をつけた。ピカソは73年に死去、2年後にはフランコも続く。『ゲルニカ』が画家の母国に戻ったのは、民主化後の1981年のことだった。当初は首都マドリードのプラド美術館で公開され、92年からは国立ソフィア王妃芸術センターに所蔵・展示されている。