昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2020/01/10

「私の恥を晒すことはご勘弁頂けましたら」

<おっしゃる通りで、私は言葉に縛られておりますが、それは、言葉だけが人間と動物を区別する材料になり得るためです。話せる障害者は中堅職員が「お金が無い」と話していると、絶妙なタイミングで「いい年こいて情けねーなー」と言い放ち、他には「名前飽きちゃった」と言うので〇〇〇〇と名付けると、大喜びしてくれました>

 最初の返事で植松被告は、こう書いている。この手紙ではまた、

<心失者を本心で擁護するのはその家族か脳性マヒ者だけで、彼らは人に迷惑をかけてあたり前と考えなくては自負を保つことができません>

 と述べ、「全国青い芝の会」(※脳性マヒ者による障害者運動団体)の行動綱領が引用されていた。あちこちから面会希望や手紙が来るのだろうな、と想像させられる。そして、

<世界の格言には「正義はなされよ、悪党が滅びようとも」とあります>

 とカントを引用するのである。それをどう解釈して引用したのか、説明らしい文言はない。植松被告らしいな、と私には思えた。

 率直に評して、彼は優秀な思想青年ではなかった。犯行の正当化と不可分の関係にある「安楽死」案は頭打ちになり、なんでもかんでも「税金」や「国の負債」を楯にする。こちらのちょっとした事実確認に対し「(自分の)指をへし折ってやりたい」「私の恥を晒すことはご勘弁頂けましたら」などと過剰に反応する彼に、私は思っていた以上の弱さと自愛を感じた。

移送される植松被告 ©Getty Images

手紙のやりとりの中で、植松被告に起こったある変化

 犯行当時からこの手紙のやり取りまでに、大きく変化した点があった。植松被告は当初、彼の標的とされた人々の家族には同情的だった。犯行前の衆議院議長に宛てた手紙(「保護者の疲れ切った表情……」)からも犯行直後の供述(「突然のお別れをさせるようになってしまい……謝罪したい」)からもそれはうかがえる。しかし私に返事を書いてきた時にはもう、家族を悪役と見なす考えに染まっていた。

<働かないで年間120万円貰えれば、それなりに幸せなのは当然です>

<それは、心失者をやしなうための金銭ですが、実際は家族が自身の生活費、パチンコや車の購入、家のリフォーム等に使用されています>

 さらには施設の職員を、

<障害等級を上げる為に嘘の報告をしてより多くの金銭を騙し奪っていた詐欺師>

と批判する。

 手紙のやりとりをするうちに私は、彼が「安楽死」の主張にこだわるのは単に自分の命が惜しいからではないか、と感じるようになっていた。殺した相手を人だと認めると死刑に直結すると思い込み、それが怖いから「人ではない」としたがるのではないか。