世界のプロ野球の現実は厳しい。「スポーツセレブ」になれるのはメジャーリーガーだけで、圧倒的多数の選手は、M-1を目指す若手漫才師のごとく、見果てぬ夢を追いかけ、小遣い銭程度の小銭を得るため汗と泥にまみれている。
そういう世界に飛び込んだ青年がこの冬も海を渡った。道原順也23歳。日本では、町を歩いていても見向きもされない独立リーガーだが、ここニュージーランドでは、スポーツニュースの画面にそのマウンド姿がでかでかと映し出されている。1月3日、この冬のシーズン彼にとって2度目の先発登板は、オーナーとの直談判により「大一番」となった。
弱小チームのエースから国立大学を経て独立リーグ入り
京都市内有数の進学校の弱小チームのエースだった。最後の夏は3回戦で甲子園への夢は絶たれたものの、対戦相手が名門校だったことで、トップレベルの背中が見えたように感じた。プロへの夢は監督に一笑に付され封印せざるをえなかったが、進学先の高知大でもリーグの最優秀防御率のタイトルを獲るなど、四国の大学球界を代表する投手となった。卒業を目の前にして、実業団から声がかかったが、彼はそれを断ってしまう。
「都市対抗を目指す強豪ではなく、仕事優先っていうことだったんで。クラブチームの話もあったんですが、それじゃあプロにつながりませんから」
サラリーマンになる選択肢はなかった。地元の独立リーグ球団、高知ファイティングドッグスに入団し、ドラフトを目指すことにした。せっかく国立大学まで進んだのだから普通に就職しろ、とまあ、ある意味まっとうな両親の声には耳を貸すことはなかった。若さとは、大人の常識に背を向けることでもある。
正直なところ、独立リーグのレベルは思ったほどでもなかったが、やはり年数人はドラフトにかかる選手がいる場。レギュラークラスは道原より数段上手で、大学時代1点台だった防御率は4点台に落ち込んだ。それでもストレートの最速は148キロを記録するようになり、夏に行われた北米独立リーグへの武者修行の遠征チームのメンバーにも選ばれた。そして、シーズン後の四国の独立リーガーにとってプロへの登竜門ともいえる秋のフェニックスリーグにも参加した。道原のもとにはプロ球団から調査書が届かず、1年目でのプロ入りはかなわなかったものの、ここで道原は、自分の現在地がプロへの入り口とそう遠いところにあるわけでないことを実感した。
「手ごたえは感じましたよ。ヤクルトの村上とか、楽天の辰己とか主力クラスも打ち取りましたから。巨人戦では先発して4回をきちんと抑えました。でも、次のロッテ戦ではもうなにを投げても打たれましたね。巨人戦では通じた真っすぐが全然通じませんでした。夏の北米遠征で身につけたスプリットが決まらなかったんです」
プロレベルだと、いくらストレートが速くてもつかまってしまう。壁を感じた宮崎での1か月だったが、それは夢の輪郭を浮かび上がらせることのできた時間でもあった。
ニュージーランドでの無謀な挑戦としくじり
そしてフェニックスリーグ終了2日後に道原はニュージーランドに向かった。昨シーズンからオーストラリア・ウィンターリーグに参戦したオークランド・トゥアタラのトライアウトに参加するためだった。住むところも決めない片道切符の渡航という無謀な挑戦もまた若者の特権である。
無謀な挑戦が若者の特権ならば、しくじりもまた若者の特権である。道原が到着したとき、すでにトライアウトは終わっていたのだ。要するに遅刻である。結局、つてをたよってホームステイ先とアマチュアクラブチームの「助っ人」として投げるチャンスだけは確保して、オークランド球団には入団の希望だけ伝えておいた。
しかし、ひと月経ってもお声がかからず。一方で所持金はなくなっていく。結局諦めて帰国便のチケットを買い、クラブチームで最後の登板に臨んだ。チームは花道として道原に8イニングを与えたが、これをしっかり抑えた道原は、日本に戻ることになった。
しかし、帰国前日になって、この情報を聞きつけたオークランド球団からの連絡が舞い込んだ。呼び出され、シートバッティングで好投した道原は、その直後目の前に出された英文だらけの紙に言われるがままサインした。翌日、彼は機上の人となっていたが、行き先は日本からオーストラリアに変わっていた。
遠征先のブリスベンでの最終戦で勝ち試合を締め初登板を飾ると、翌週には地元オークランドでのリリーフで初勝利を挙げた。そして2019年最後の試合での初先発では、3回2失点と初失点を喫したが、首脳陣の評価は変わることはなく、年明けの2試合目の先発マウンドが与えられた。