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「変わらぬ面」を切り取る

 展示写真を観ていると、それぞれの男性は家の近所に立ち尽くしていたり、部屋の中でだらしなく寝転んだり。とくに出来事が起こるわけでもなし、なんらかのストーリーが読み取れることもない。もっといえば、時間が進んでいないような気すらしてくる。

©伊澤絵里奈

 弟と夫、どちらの被写体についても彼女は数年間にわたり撮り続けており、展示には何年も前の写真と最近のものが混在する。それなのに、ある一日の出来事を追った写真で展示を構成したと言われても納得してしまいそうなほどに、被写体となるふたりにも取り巻く環境にも変化がない。いや、実際には弟も夫も、さまざまに変化しているのだろうけれど、伊澤の写真は彼らの変化よりも、「変わらぬ面」ばかりを見て切り取ろうとしている。変化を感じさせるものは注意深く画面から排除された節がある。

©伊澤絵里奈

 この変わらなさこそ、伊澤が撮り集めようとしたものだ。自分の愛する日常を、変わらぬ状態でどこまでも引き延ばすこと。過去への憧れや後悔、未来への不安や希望、そういうものは現在の平穏をかき乱すから、脇に追いやっておく。そうして今というお気に入りの時だけを、ぐぐっとできるだけ引き延ばす。

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 写真のなかの世界に没頭しているかぎり、昨日も今日も明日も、わたしの大好きで大切な日常はずっと続いていくと信じることができる。今展の空間で伊澤は、そんな自身の理想を体現させている。

彼女が写真を撮る理由

 伊澤が写真を用いて表現する理由と必然性も、きっとそのあたりにある。他の何を措いても日常を引き延ばしたいという彼女の願望を、損なうことなく掬い取るには、「今、ここ」のものごとを忠実に写し取ってくれる写真という装置こそが最適だ。

 しかも、写真は日常の断片を切り取ることしかできないけれど、断片だからこそ、違う時間の欠片を集めて今展のように一挙に並べることだってできる。無数の断片をいちどきに見られるから、あの日もこの日も、あの場所もこの場所も、まったく等価に感じられる。組み合わせ方をうまくすれば、日常が遍在し永遠に続くと強く実感することもできるのである。

 

 会場で作品を眺めていると、ふと気づかされる。写真で日常を引き延ばそうとしているのは、なにも彼女だけじゃない。そういえばわたしも、あなたも、ほとんどの人が同様のことをしているんじゃないか。スマホを含めれば、いまや誰もがいつでもカメラを持ち歩いている時代。気になったもの、いいなと思ったものを、日頃から皆どしどし写真に収めている。それは伊澤が作品づくりでやっているのと同じく「今、ここ」を肯定して、すてきな日常として留めておいて、この先も連れて歩いていこうとする気持ちの表れだ。

 日常以外のどこに、切実なことや大切なものがあるのか? いや、ないでしょう。小さい展示が、予想外に大きな気づきをもたらしてくれる。