「以前から時代小説が好きで、そこに出てくるような一つのことにストイックに取り組む男を現代小説で登場させてみたかったんです」
栃木県のある町で学習塾を営んでいた伊苅は、自宅兼教室の壁に稚拙な原色の絵を描き始める。あるきっかけで周囲の民家の壁にも絵を描いてほしいと頼まれ、町はSNS上で話題になる。それを知ったノンフィクションライターの鈴木は伊苅を取材しようとするが、多くを語らない――。
第一章は壁画だらけの町が誕生するまで、第二章から最後の第五章までは伊苅に関する過去の物語が続く。この構成は執筆前、突然思い浮かんだという。
「五つの箱が降りてきた感覚です。最後の箱の終わり、つまり物語のラストシーンは頭にあるんですが、どうすればたどり着くのか自分でも分からない(笑)。初めての経験でした」
伊苅は大学進学後しばらく東京で過ごしたが、中年になって地元に戻った。家族はいたのか、絵を始めるきっかけは? 読者は、鈴木が伊苅の過去、そして絵を描き続ける動機を明かしてくれる人物だと期待するだろう。しかし……。
「最初から意図したわけではありませんが、取材で手に入れた伊苅の断片をつなぎ合わせることで、本当に一人の人間が見えてくるのか疑問が浮かんだんです。もちろん鈴木は色々な事実をつきとめますが、人の印象なんて捉え方次第で変わりますよね。鈴木を単なる狂言回しにしなかったことで、後半では思ってもみなかった鈴木の姿が立ち上がってきたように思います」
殺人など、犯罪こそ起きないが、人間の心や世界そのものがミステリーになってしまうのは著者ならでは。
「時代小説にインスパイアされたと言いながら、僕が書くとミステリーの技法を注ぎ込んでしまう(笑)。ラスト一行にたどり着いたときにこれまで見えなかった物語が一気に浮かんでくる仕掛けになっています」
その言葉通り、結末にたどり着いたときのミステリー的爽快感と同時に、むしろ書かれていなかった物語が動き出す。
「わざと空白を作って、それを読者に埋めてもらう小説を目指したからこその読後感でしょうね。特に第一章は伊苅の心情に関して、“嬉しい”というようなポジティブな感情は書きましたが、悲しさや悔しさはあえて表現しませんでした。最後まで読んでもらえば、あのとき伊苅はどんな心情だったか絶対にわかってもらえる自信がありましたから」
栃木県のある町で家屋の外壁に描かれた原色の絵の数々がSNS上で話題になる。ライターの鈴木が現地まで赴き調べたところ、伊苅という中年男性が描いたものだと分かる。なぜ伊苅は他人の家の壁にまで絵を描き始めたのか。本人は多くを語らないため、鈴木は伊苅の過去を洗おうとするのだが――。 文藝春秋 1500円+税