三国ともに抱く「屈辱」と「プライド」
私が最初に日本に来て生活したのは一九八七年である。日中戦争や太平洋戦争での日本軍の勇猛を美化した映画や本が溢れているだろうと想像していたが、実際の日本社会の雰囲気はまるで違うものであった。韓国人が幼い時から国民の美徳として教育された「愛国心」という言葉が日本ではあまり聞こえないのが印象的であった。
今とは違って当時韓国では映画館で毎回映画が始まる前、観客が皆席から起立してスクリーンに国歌が流れるのを厳粛に聞き終えて、席に座ったら政府が作った「大韓ニュース」を視聴していた。それがどこの国でも普通であろうと思っていた私には日本社会の実像はある意味衝撃でもあった。
それ以降、日本と韓国はそれぞれ違うベクトルに動いた。韓国では民主化が進み以前のような国家主義的な色彩は随分薄まって行った。一方日本では国歌の斉唱や国旗の掲揚が広がり、「愛国心」という言葉もよく聞くようになった。最近米誌「タイム」の表紙を飾った安倍総理の顔写真の横に「THE PATRIOT(愛国者)」の文字が大きく並んでいたのは、その意味で示唆的であった。
違う方向に動いた日韓の社会において共通した現象として現れたのがナショナリズムの台頭である。ナショナリズムの根底にあるのは、韓国の場合は日本による植民地支配の屈辱で、日本の場合は敗戦の屈辱であろう。ちなみに中国にはアヘン戦争以来一世紀以上に及ぶ屈辱がある。だから裏を返せば日韓中三国のナショナリズムはそれぞれの「プライド」にかかわるものであると言えよう。
「プライド」というものは、実はすごく自己中心的な所があって、時には偏狭なナショナリズムにつながりやすい。現に偏狭なナショナリズムを背景にした国内の世論に背中を押された形で、どこの国の外交もポピュリズムに流されやすくなっている。外交に柔軟性がなくなり、どんどん硬直化しているのだ。このままだと不幸な摩擦や衝突が起きる可能性がますます高まっていく。
先に紹介した「タイム」誌の表紙には象徴的にも「安倍晋三はより強く、はっきりとした日本の夢を描いている。それがなぜ多くの人を不快にするのだろう」という問いかけが一緒に載っていた。己のプライドが重要であるだけに、相手のプライドも思い遣る。結局は相手の思考回路を理解するためのコミュニケーションが肝要だという一点に尽きる。意見の違いを解消することはできなくても、お互い誤解による誤判だけは回避しなければならない。
ベトナム戦争当時アメリカの国防長官だったマクナマラ氏は後日「敵をまず理解せよ」というのが最大の教訓であったとし、「我々は互いに敵を誤解していた」と述懐した。そして彼は「ベトナム戦争はアメリカとベトナム双方の指導者がより賢く行動していれば、避けることのできた戦争だった」と強調したのだ。
【竹嶋渉さんによる「韓国はいつまで反省を強いてくるのか(2)」はこちら】