山本五十六(左)と石原莞爾

 ナチス・ドイツ、ファシズムのイタリアとともに反共・反英米を掲げ、現状変更勢力として枢軸国の一端を担った軍国日本は、アメリカに対して「無謀な」戦争を挑みました。海軍のハワイ攻撃および陸軍のマレー半島、シンゴラ上陸に始まる一連の太平洋戦争(大東亜戦争)によって、日本は多大なる犠牲を積み上げた挙句、世界で唯一の被爆国となり、終いには国家の主権まで喪失することとなります。

 無論、当時の軍事・政治エリートの中にも、たとえば米内光政海相や山本五十六連合艦隊司令長官、井上成美第四艦隊司令長官など開戦に消極的であった者は決して少なくありませんでした。また、日米の物的基盤比較に関する報告書、並びに図上演習・兵棋演習等を通じ、たとえ南方作戦が順当にいったところで対米戦争に勝ち目のないことは自明でした。それにも拘らず、なぜ当時の日本は「自滅軌道」ともいうべき敗戦必至の対米戦争へと向かい、未曾有の惨劇を招いてしまったのでしょうか。

 このような問いに対して、たとえば開戦に関しては「ルーズベルト大統領の陰謀」説であったり、敗戦に関しては日本軍の補給の軽視、或いは日本軍という組織の構造的な欠陥にその原因を求めるものなど、様々な説が唱えられています。そこで本稿では、日米開戦の火蓋を切った真珠湾攻撃を取り上げ、その戦略的妥当性を検証することを通じて、日本の大局的な戦略の欠如を惨劇の原因として捉え直すというアプローチを試みたいと思います。

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戦略という概念

 まず、戦略という概念について簡単に触れておきます。戦略という言葉は、論者によって様々な意味で用いられていますが、事実、戦略には万人に受け入れられた明確な定義は存在せず、極めて多義的で曖昧な概念であるといえます。

 とはいえ、軍事の領域にせよ非軍事の領域にせよ戦略という言葉が用いられるとき、それは「目的」、「手段」、「計画」、「プロセス」という四つの側面のいずれかを表すか、或いはこれらの側面を包括する概念として使用されることが多いように思われます。

 また、現代戦略論の大家である歴史学者ルトワックは、その著『戦略論』において、戦略には下から技術、戦術、作戦、戦域戦略、大戦略という五つのレベルから成る「垂直的」側面と、外交、プロパガンダ、経済力、情報などの非軍事的な要素から成る「水平的」側面があり、これら二つの側面の相互作用の調和ないし統合を図ることの重要性を説いています。そしてルトワックの戦略論の核心は、戦略の論理は日常生活の領域で見られるような「直線的」(=常識的)なものではなく、戦略の全領域がそれ自体の特別な論理、すなわち逆説的論理に満ちているというものです。

 たとえば、ラテン語の格言に“Si vis pacem, para bellum.”(汝、平和を望むなら、戦争に備えよ)というものがあります。「直線的」な論理、つまり私たちの日常に馴染んだ論理でいえば、平和を望みながら戦争に備えるというのは、明らかに矛盾しているように感じられます。しかし、一九三八年九月末に開かれたミュンヘン会談において、平和を望み何とか戦争を回避しようとしたイギリスのチェンバレン首相がヒトラーに対して宥和的な態度で臨んだところ、それがナチス・ドイツの現状打破的行動を勢いづかせ、結果的に未曾有の第二次世界大戦を招くこととなりました。

 ゆえにこの古代ローマの格言は、大戦略のレベルにおける逆説的論理を見事に表しているといえますが、このような逆説は技術、戦術、作戦、戦域戦略、大戦略のすべてのレベルで見られるものであるとルトワックは主張します。

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