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真珠湾攻撃は非戦略的

 資源への渇望、そして泥沼化した日中戦争の難局を打開すべく採択された日本軍の南進政策は、結果的に自らを「ジリ貧」状態に追い込み、日本は戦略の「逆説的論理」に嵌(はま)り込むこととなります。

 真珠湾攻撃を考案した山本連合艦隊司令長官は、一九三六年一二月から三九年八月にかけて務めた海軍次官時代、対米戦争への傾斜とみられるあらゆる国策に対し断固として反対していました。また、三国同盟締結を画する政府に憤りを覚え、「日米正面衝突を回避」すべく「絶対に日独同盟を締結す可からざる」との意見書を海軍省に送っています。ハーバード大学への留学、および駐米大使館付武官としてアメリカ滞在の経験があり、日米の圧倒的な国力の差を肌で感じていた山本長官にとって、対米戦争は大局的な敗戦必至の認識でした。正攻法ではアメリカには勝てない。ならばたとえそれがいかにリスクを伴う危険困難なものであろうと、航空機による奇襲によって米海軍および米国民の士気を沮喪(そそう)させる以外にない。これが山本長官の下した決断でした。

 たしかに真珠湾奇襲作戦は、日本の大艦隊がハワイまでの約二週間、他国の船舶や航空機に遭遇することなく航行し秘密裡に作戦を準備・遂行することができるのか、仮に遭遇し察知された場合いかなる対処をとるのか、作戦実施当日、真珠湾に米艦隊が停泊しているかどうかはわからない、もし作戦に失敗すれば、南方作戦に必要な空母や兵力を失いかねない、などといった戦略上の大きなリスクを孕んでいました。しかしそれでも、アメリカに対して桶狭間(おけはざま)や鵯越(ひよどりごえ)のような奇襲攻撃が成功する可能性は決して低くはない、何よりも二年を超える長期戦が望めない以上、緒戦の大勝に賭ける以外に道はないという、日本の置かれた実情に基づくものでした。

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 実際、一九四一年一二月八日に実施された真珠湾攻撃は期待を上回る大きな戦果を上げ、日本は緒戦に勝利することとなります。しかし、緒戦に勝利したからといって対米戦争を終わらせる成算が立ったわけでもなく、戦略目標を欠いた日本はその後も状況主義的な動きに終始せざるを得ませんでした。

 真珠湾の奇襲攻撃は、作戦・戦術レベルにおける戦略という観点からすれば、その妥当性は決して低くはなかったといえます。しかし、より高次の大局的な戦略という観点でいえば、対米開戦は合理的な損益計算を無視した状況主義的・機会主義的政治判断であり、極めて非戦略的な選択に他なりません。そこには何としても「ジリ貧」だけは回避したいという軍部の思惑が色濃く反映されていましたが、結局のところ国家破滅の一途をたどる「自爆戦争」突入以外の何ものでもありませんでした。

 軍事費という観点で見れば、日中戦争開始から太平洋戦争開始までの四年間、「臨時軍事費」という名の特別会計によって約二五〇億円、現在の貨幣価値にして二〇兆円を優に超える潤沢な資金を得、陸軍は対ソ戦、海軍は対米戦に備えてこれを流用していた軍部が、連戦即決・短期決戦に淡い期待を抱いてしまったというのも、わからなくはありません。ですが、「緒戦の大勝による短期決戦」が希望的観測の域を出るものではない以上、最悪の事態を想定し、客観的なデータに基づく合理的な政策判断によって、大局的な国家利益の対極にあった対米開戦は避けられるべきものであったのではないでしょうか。

 また、真珠湾の奇襲作戦の成功によって勢い付いた海軍は、再び伝統の「艦隊決戦思想」に囚われ、それがミッドウェー以降の惨敗を決定づけたという見方があります。しかし、いくら作戦・戦術論の巧拙を論じたところで、当時の日本は大局的な戦略を欠いていた以上、結局行き着くところは史実とさして変わらなかったように思われます。

 ここまで日本の大局的な戦略の欠如を指摘してきましたが、「戦略」の射程を拡げれば、三次にわたる近衛声明や「基本国策要綱」、「帝国国策要綱」(「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」)など、日本にも歴とした戦略があったと見る動きがあるかもしれません。しかし、独ソ戦開始に伴う対ソ戦準備と南部仏印進駐の方針を決定し、北進・南進の両論を併記した「帝国国策要綱」を例に挙げれば、北進・南進を併記している時点で「二重の目的」、すなわちその曖昧性が露呈しています。本来であれば一つの目的・目標が明示され、それを達成するための行動の指針として打ち出されるはずの戦略ですが、それゆえに目的の二重性は戦略として致命的な欠陥であり、或いはこれは「大戦略」の体を成すものではないと見ることができます。

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