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 このように、戦略という言葉の意味するところは非常に複雑で一概には捉え難いのですが、本稿においては、主に最も次元の高い大戦略(グランド・ストラテジー)、国家レベルにおける、外交や経済といった「水平的」側面をも含めた「国家の政治的な目的を達成するための行動の指針」という意味合いに主眼を置きます。

 無論、戦略の「垂直的」側面である技術、戦術、作戦、戦域戦略、大戦略という五つのレベルのいずれも軽視すべきではないのですが、とりわけ最上位の大戦略こそが、政治的な目的の成否に直接影響を及ぼします。たしかに機械の故障や戦術の誤認・誤解、作戦を立案する幕僚機関と実施部隊の意思の不一致、各個戦闘の勝利に伴う戦域の拡大による補給路の展延などは、戦局を大きく左右するものです。しかし、これらの「摩擦」(不確実性)は戦争には必ず付いて回るものであり、より大局的な大戦略の奏功によって最終的に相殺され得るものであるといえます。その一方で、大戦略の欠陥、ましてやその欠如は、技術や作戦・戦術で補うことはできません。むしろ技術、戦術、作戦、戦域戦略の各レベルは、常に大局的な大戦略に照らし合わせて適宜見直されるべき付随的なものです。

 そして軍国日本は、大局的な戦略の重要性を明らかに軽視していました。その戦略は極めて曖昧なものであったがゆえ、状況主義的行動に終始せざるを得ず、軍部の台頭によってグランド・デザインとしての戦略より、むしろ軍事的な側面がより前面に押し出される作戦・戦術に没入する傾向にあったといえます。

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 日本が対米英蘭開戦を正式に決定したのは、南部仏印(現ベトナム南部)進駐後に対外関係、とりわけ日米関係が決定的に悪化し「ハル・ノート」を突きつけられた後、一九四一年十二月一日に開かれた御前会議においてです。それまでにも、九月六日の御前会議で第三次近衛内閣が決定し、十一月五日の御前会議において東条内閣が再度決定し承認された「帝国国策遂行要領」で、すでに十二月初旬の開戦が決定されていました。しかし、この時はまだ「十二月一日午前零時までに日米交渉が成立した場合は武力発動を中止する」という留保付きのものでありました。

 とはいえ、十一月五日の決定を受けた陸海軍は直ちにフィリピン、マレーなどに対する南方作戦やハワイ攻撃をはじめとする作戦準備を発動します。

 第二次近衛内閣によって三国同盟が締結される少し前の一九四〇年八月、海軍はいざという時を想定した一応の対応として、平時から戦時への編成切り替えを済ませていました。そして四一年七月、日本軍は援蒋ルートの遮断と石油・ゴム・アルミなどの資源確保を目的とした南進政策遂行の戦略的要衝となる航空基地の獲得に向け、南部仏印に進駐します。これに対し、アメリカが在米日本資産の凍結と石油の全面禁輸という、日本の予想を遥かに超える強硬な制裁措置に打って出ると、海軍は多数国同時作戦を想定した全面的な戦時態勢への移行(出師準備第二着作業)を開始しました。

 当時使用量の約九割をアメリカからの輸入に依存していた石油が全面禁輸ともなれば、日本は戦争を継続することはおろか、民間産業までもが立ち行かなくなることは自明でした。日米交渉が開始される直前の一九四一年三月二二日に陸軍省整備局によって報告された対米戦争における物的基盤比較は、二年を超える長期戦の不可を告げており、これが独ソ戦の開始、そして「ノモンハンの悪夢」などと相まって、南進論に拍車を掛けます。独ソ戦が開始されたとき、日本が「何もしない」という選択をしていれば、自ずと敵を減らし戦略的優位を構築することができたにも拘らず、北進か南進か、或いはその両方かという議論に終始していたことからも、そこに確固たる戦略が欠けていたことが見てとれます。

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