石原莞爾には戦略があった
個人レベルでいえば、当時の日本にも極めて大局的な戦略を描き、それを実践しようとした人物がいたことは確かです。なかでもその名が知れ渡るのが、陸軍中将・石原莞爾でしょう。『世界最終戦論』(のち『最終戦争論』)、『戦争史大観』などで知られる石原の戦略理論は、戦争が不可避であるという前提に基づきます。その核心は性悪説の立場から、道義では人間の闘争心をなくすことはできないため、世界最終戦争を通じて世界を統一するしかない、というものです。いずれ訪れる日米の最終決戦を前に「日満支」が一体となり、勝利に向けて備えなければならない。そしてその第一段階としての実践が、満州事変の独断専行でした。
ところが、一九三三年五月末の塘沽(タンクー)停戦協定に基づく華北分離工作は中国の抗日意識を著しく高め、三五年の八・一宣言(「抗日救国のため、全国同胞に告げる書」)、三六年の西安事件をきっかけとした抗日民族統一戦線結成へとつながっていきます。
そして一九三七年七月、盧溝橋事件を機に日中戦争が勃発します。日本・満州国・中国の連帯を唱える石原にとって日中戦争はあってはならない戦争であり、実際、「支那事変」が拡大に向かってはずみ始めたとき、当時作戦部長であった石原は、近衛首相が蒋介石と頂上会談を行い、決着をつける以外に術はない、石原が中国までお供する、と提案します。結局、近衛首相は決断に踏み切れず戦争は拡大・泥沼化し、それが結果的に太平洋戦争へとつながっていきます。
そして日米戦争もまた、石原にとっては何十年か早く始まってしまった戦争であり、彼の戦略理論上、決して勝てない戦争であることを早くから認識していました。戦後、石原は通信社の記者に対し、次のように語っています。
日本が真にサイパンの防備に万全を期していたなら、米軍の侵入は防ぐことはできた。(中略)米軍はサイパンを奪取できなければ、日本本土爆撃は困難であった。(中略)蒋介石氏がその態度を明確にしたのは、サイパンが陥落してからである。サイパンさえ守り得たなら、日本は東亜の内乱を政治的に解決し、中国に心から謝罪して支那事変を解決し、次に民族の結合力を利用して東亜一丸となる事が出来たであろう。
(高木清寿『東亜の父 石原莞爾』)
たしかに石原の戦争不可避・最終決戦思想は決定的に間違っていました。また、国軍の一幕僚が国外で事変を画策・独断専行するというのも決してあってはならないことであり、関東軍による満州事変こそが、日本の国際的孤立を招いたことは紛れもない事実です。しかし、綿密な歴史研究を基に軍事のみならず政治・経済・外交・文化等、戦略の「水平的」側面にも着目し、大局的かつ長期的なスケールで戦略を構築して行動の指針とすることの重要性を認識していた石原に学ぶことは、決して少なくありません。
一方、対米戦争の愚を知り、アメリカに対して勝ち目はないことを悟っていたにも拘らず、国家の政治的な決定に殉じ、真珠湾奇襲作戦を策定・実施した山本は、いわば軍人の鑑であり、一組織人としてあるべき姿を体現した人物であるように思われます。二人の「生き様」の是非はさておき、石原は大局的な戦略を何よりも重視し、山本は与えられた状況の下、作戦・戦術のレベルでより良く戦うことを追求したと見ることができるでしょう。しかしミッドウェー以降の史実を見てもわかるように、戦略の不備を作戦・戦術で補うことは到底不可能であることは否めません。
いま、歴史から何を学ぶべきか
戦争の歴史を振り返るとき、そこには「こうすれば勝てた」、或いは「あの時こうすべきであった」という議論が必ずと言っていいほど付いて回ります。しかし、それらは押し並べて戦略それ自体のもつパラドックス、あるいは戦争における「摩擦」を蔑(ないがし)ろにしたものであり、当時の状況でそれが本当に実行可能であったのか、或いは実行したところで相手がどう反応してきたのかについては、あくまで推測の域を出ません。その当時、日本で最も優秀な人間が幕僚として作戦・戦術を作成し、最も優秀な人間が部隊を指揮し任務を遂行していたことを顧慮すれば、大局的な戦略がいかに重要であり、かつ戦争がいかに不確実性に左右されるものであるかを窺(うかが)い知ることができます。
「歴史は繰り返される」といいますが、「歴史の一回性」もまた、歴史の反復性によって棄却され得ない厳然たる事実です。何よりもいま私たちが過去の歴史に学ぶべきは、「あの時こうしていれば勝てた」という瑣末な方法論ではなく、どうすれば同じ過ちを避けられるのか、すなわちどうすれば我々日本人が二度と戦争の惨禍を繰り返さずに済むのかということです。そして本質的な国益を見据えた確固たる戦略の下、平和国家としての繁栄を真摯に追求していくことこそが、日本が進むべき道なのではないでしょうか。