南シナ海をめぐって、中国と近隣諸国との緊張が続いている。引き金を引いたのは、今年五月、中国が石油掘削装置をパラセル諸島(西沙諸島)付近の海域に持ち込んだことだ。五月七日には中国の公船がベトナムの船に体当たりをする映像も公開され、ベトナム国内では大規模な反中デモが起きた。しかし、中国の活動は止まらず、大型の中国漁船が小型のベトナム漁船を追いまわし、上に乗り上げるようにして沈没させる映像が世界を駆け巡った。七月半ばには、中国は採掘施設を撤収したが、一方的に設定した「九段線」などの領有権は主張し続けている。
こうした経緯からは、大国である中国が小国ベトナムを力でねじ伏せているという構図が浮かぶ。しかし、筆者は、中国にとってベトナムはけっして容易な相手ではないと考える。
なんといってもベトナムは、過去数千年、世界の中心ともいえる中国歴代王朝と国境を接しながら、大小さまざまな戦いを交え、幾度となく侵攻されてはその都度、撃退して、ここまで国家として生き延びてきた国なのだ。
なかでも、モンゴル帝国の侵攻を三度にわたって跳ね返した抗元戦と、一九七九年の中越戦争は、ベトナムという国の強さ、したたかさをよく示している。
では、なぜベトナムは中国に負けないのか。具体的な歴史の事例を参照しながら、その戦略をみていきたい。
ベトナム、当時の大越が、元軍の来襲を受けたのは一二五七年のことだ。事前に、侵攻の危険性を察したベトナムは、朝貢の回数を増やすことでこれを回避しようとするが、この頃、アラブ世界や東欧にまで支配権を広げていたモンゴル帝国を抑えるには至らず、戦端は開かれた。
しかし、ベトナム側の劣勢は明らかだったにもかかわらず、一二五七年、一二八四年、一二八八年と三度もの元寇を退けたのである。なかでも語り継がれているのが、一二八八年の白藤江(バックダン河)の戦いだ。
この戦いはベトナム側が地の利を最大限生かしてもぎとった勝利ともいわれる。潮の満ち引きが河の水位に影響を与えていると知っていたベトナム軍は、あらかじめ川底に杭を何本も打ち込んでおき、元の水軍を迎え入れた。逃げ出していったベトナム軍に対し、元軍は勝利を確信したが、間もなく水位が低下するや、船底が杭に引っ掛かり、身動きが取れなくなってしまうのである。水上で立ち往生し、慌てふためく元軍は、もはやベトナム軍の攻撃の的でしかなかったという。
こうした地の利を生かした防衛戦の巧みさは、国中に様々なトラップ(罠)を張り巡らせ、米兵を恐怖に陥れたとされるベトナム戦争とも共通している。
また、実はこのベトナムの抗元戦は、日本の歴史にも大きな影響を与えた。鎌倉時代、元の大軍が襲来した文永の役(一二七四年)、弘安の役(一二八一年)のあと、元は三度目の出兵を計画していたとされるが、それが実現しなかった理由のひとつには、このベトナムに対する苦戦があったとも言われている。
中越戦争というトラウマ
さらに中国共産党にとって、一種のトラウマともいえるのが、一九七九年二月に始まった中越戦争だ。表向きは中国政府は勝利宣言をしたが、抗日戦争、国共内戦、朝鮮戦争などでは、その後も繰り返し勝利を強調し、自らの支配の正統性に結び付けているのに対し、この中越戦争については、中国共産党が積極的に触れたがらない戦争として知られている。
「中国はもちろん正式に負けたなどとは言っていませんが、現実はベトナムの思わぬ抵抗に根負けしたことに変わりありません。兵士のなかにも中国政府の発表した死者数に疑問を持っている者が少なくなく、みな意図的に被害を小さく見せようとしていると話しています。実際の戦地は地獄だったようです」(党の関係者)
この戦争のそもそものきっかけは、七九年一月、ベトナムが隣国カンボジアを攻撃、中国が支援していたポル・ポト政権を崩壊させたことだった。
これは当時の中国にとっては、二重の“裏切り”だったのである。