「集団的自衛権と靖国参拝に、何の関係があるというのですかね」“ミスター集団的自衛権”が語る憲法解釈変更の理論と道のり

聞き手:潮 匡人(評論家・拓殖大学客員教授)

――今年、石破さんは『日本人のための「集団的自衛権」入門』(新潮新書)を上梓され、増刷を重ねていますが、いまなぜ集団的自衛権なのでしょうか。

 

石破 東西冷戦の頃は、バランス・オブ・パワー(力の均衡)が保たれ、第三次世界大戦は回避されました。冷戦は「長い平和」の時代でもありました(J・L・ギャディス『ロング・ピース』芦書房)。その冷戦構造が崩壊し、力の均衡が崩れた。冷戦の終結が、その後の湾岸戦争やユーゴ紛争、イラク戦争を生んだとも言えるでしょう。アジア太平洋においても再び、地域の力を均衡させる必要が生まれているのです。

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――「リバランス政策」とも呼ばれる、米オバマ政権が掲げるアジア太平洋重視戦略の背景ですね。

石破 それも、今、日本が集団的自衛権の行使を可能としなければならない背景の一つです。日米同盟を強化し、加えてオーストラリアその他アジア太平洋諸国との関係を強化することで地域のバランスを保つ。集団的自衛権の行使を認め、将来的には日米安保を再改定する。それが独立主権国家としての本来のあり方ではないでしょうか。

――一部マスコミは、集団的自衛権の行使に向けた政府・自民党の動きを「右傾化」や「ナショナリズム」の脈絡で批判しています。

石破 かつて江藤淳氏は、「保守主義にイデオロギーはありません。イデオロギーがない――これが実は保守主義の要諦なのです」と書きました(『保守とはなにか』文藝春秋)。皇室を敬い、家族や地域共同体を大切にし、歴史と伝統文化を守る。それが本来の保守でしょう。それと集団的自衛権の問題は、なんら関係がありません。

 集団的自衛権をナショナリズムと結びつけるのは「国連憲章」をきちんと理解していない証拠です。集団的自衛権は、国連憲章によって「固有の権利」と規定されたものです。国連は、国際紛争を個別の国家間の戦争ではなく、国連加盟国全体で解決するという集団的安全保障の精神で作られています。しかし一方で、憲章は安保理の常任理事国に拒否権を与えました。拒否権が行使されれば、国連は紛争に介入できす、集団安全保障体制は機能しません。だから中南米諸国などが「われわれ小国はどうなってしまうのか」と不安の声を上げたのです。そこで集団的自衛権を規定した。そもそも集団的自衛権は、大国の横暴から小国が連携して自衛を図るための権利なのです。それを「侵略戦争」や「ナショナリズム」と結びつけるのは、かなり飛躍した発想ではないでしょうか。

「憲法は政府を縛る」だけでは狭すぎる

――たとえば朝日新聞は「集団的自衛権 解釈で9条を変えるな」と題した社説で「時の首相の一存で改められれば、民主国家がよってたつ立憲主義は壊れてしまう」と批判しました(今年三月三日付)。

石破 私は学者ではありませんので、さまざまな学説について議論はしませんが、「憲法は政府を縛るものだ」とすることだけを立憲主義と捉えるのは狭すぎると思います。憲法の定める基本的人権の尊重や平和主義、国民主権といった基本原理は政府を拘束しますし、変えてはなりません。他方、時代に応じて変えなければ国民の安全が保てないのであれば、変えるべきものもあるはずです。しかも立憲主義によって三権分立が厳格に定められている以上、「時の首相の一存」で改めることは不可能です。憲法に従い、主権者たる国民が選んだ国会議員によって選ばれた内閣として決定するのであり、閣議決定しても、国会が法律を整備しなければ行使はできません。

――朝日は「日本近海での米艦護衛は、基本的には個別的自衛権の枠組みで対応できる」とも主張しました(平成十九年五月三日付)。こちらは個別的自衛権の解釈を拡大していこうという話ですから、これだって「時の首相の一存」になるはずですね(笑)。

石破 今は日本海海戦(日露戦争)の時代と違って、艦船が整列して航行するわけではありませんから、米艦護衛の議論をする場合も、防護すべき米艦は水平線のはるか向こうにいると考えるべきでしょう。その米艦に対する攻撃を日本に対する攻撃とみなすのは、国際的には国際法とは隔たりのある日本独自の解釈と言われてしまう危険性があると思います。いくら日本が「個別的自衛権」と言っても、海外から見れば集団的自衛権の行使にしか見えないわけですから。

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