世の新刊書評欄では取り上げられない、5年前・10年前の傑作、あるいはスルーされてしまった傑作から、徹夜必至の面白本を、熱くお勧めします。

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『陛下』(久世光彦 著)

 今では死語に近いが「恋闕(れんけつ)」という言葉がある。天皇に対して忠誠心以上の情熱で恋い焦がれることを示す言葉だ。およそ思いつくうちで最も危険な日本語だと思う。いかに危険かは、久世光彦『陛下』から察せられる。

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 主人公の若き陸軍中尉・剣持梓は、大陸で戦死した兄が五・一五事件に関わっていたことを知る。兄に影響を与えた革命家の「魔王」こと北一輝、馴染みの娼婦、気のふれた姉……武骨な梓を囲繞(いにょう)する、危うく艶めかしい人間関係。やがて、彼は新たな叛乱へとのめり込んでゆく。

 忠君だの愛国だのという言葉にはストイシズムのイメージがまつわるけれども、本書にはそんなものはかけらもない。ここにあるのは、「恋闕」という言葉が孕む熱っぽい情念でありエロスである。梓は子供の頃から見る夢の中の天皇を思い返しながら「陛下!」と叫び、娼婦を抱きながら「陛下!」と叫ぶ。もはや尊皇なのか不敬なのかわからない。昭和天皇について「男みたいに見えますが、実は女なのかもしれませんね」ととんでもないことを語る北一輝も、やけに中性的な雰囲気の人物として描かれる。史実の彼は隻眼だったが、本書に登場する彼は、なんと義眼の裏に天皇の写真を貼りつけているのだ。その一方で逞しく素直に生きる娼婦たちの姿が、男たちの狂おしい倒錯ぶりを更に際立たせる。

 禁断の恋やクーデター計画といったモチーフから、三島由紀夫の小説『豊饒の海』を想起する読者が多そうだが、三島よりずっと混沌としており、遥かに官能的なのが本書の世界だ。不敬と背中合わせである恋闕の恍惚を、耽美を極めた文章で描ききった著者の魔的な筆力に惚れ惚れする。(百)

陛下

久世光彦(著)

新潮社
1999年3月1日 発売

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