世の新刊書評欄では取り上げられない、5年前・10年前の傑作、あるいはスルーされてしまった傑作から、徹夜必至の面白本を、熱くお勧めします。

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『死の棘』(島尾敏雄 著)

 ページを開くと一行目から異様に不穏で不吉なのである。語り手の「私」は妻ともども三日寝ていないと言う。妻は「私」が十一月には家を出て十二月には自殺すると邪悪な予言者のように告げる。そして次のページに移ると、小説家である語り手が三日前に見た仕事部屋の惨状が描かれる。部屋中に「血のりのようにあびせかけられたインキ」。転がる日記帳。そこには彼の浮気が細かく書かれていた。妻はそれを見た。それがはじまりだったのだ。

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 妻は執拗に主人公を詰問し、弾劾する。夫は卑屈に許しを懇願する。妻の激昂は狂気の域に達し、ページを覆う暗然とした空気はギスギスと濃くなってゆく。息苦しい。読むほうも追いつめられてゆく。

 島尾敏雄の名作『死の棘』はこうしてはじまる。事態はまったく好転しない。ひたすら夫を非難し、幻聴を聞いて怯え、自殺をほのめかす妻。幼い娘と息子の眼前で、疲弊した夫は狂気を装って暴れ、死んでやると叫び、物を破壊する。そうこうしているうちに生活は困窮、仕事を乞いに行こうにも妻の精神状態が不安で家を空けられず、妻子連れで出版社へ向かう。妻は妙齢の女を見るたびに夫の愛人ではないかと怯え、精神にひびを入れる……

 妻と夫の神経の削り合い。狂気と正気のガチな殺しあい。ほぼ全編がそれで埋められているのだ。希望はない。だがこのおそるべき緊迫感、暗い殺気めいた吸引力は読む者を捕らえて逃さない。

 改行の少ない濃密な文体で六百ページ超。一晩では読み切れない。三晩は徹夜の必要があるだろう。それでようやくあなたは、冒頭で主人公がおかれた極限状態に追いつくことになる。(紺)

死の棘

島尾敏雄(著)

新潮社
1981年1月27日 発売

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