柿の種や鳩サブレー。親しみのあるたべものたちを、なつかしい風景とともに綴るイラストエッセイ『こいしいたべもの』が発売されました。本書から一部を紹介する、とっておきの話の最終回。豊富にものや情報があふれる便利な時代になりましたが、少しだけ忘れてしまった時間を取り戻しませんか。
◆◆◆
日差しは春めいてるのに、風はまだ冷たかった。
庭園の中に建つ書院風の古い建物の廊下に、長い緋毛氈(ひもうせん)が敷かれていた。茶会はもう始まっている。緋毛氈に並んで正座し次の席の順番を待つ人に、「ここ、よろしいですか?」と声をかけ、私も座った。
廊下の硝子戸越しに、中庭が広がっている。外はコートなしではいられないけれど、硝子越しに陽の射しこむ廊下はサンルームのようだった。
「あら、梅に鶯が来てる……」
私のすぐ前の江戸小紋の若い女性が、中庭を見てつぶやいた。すると、藤色の色無地を着た白髪のご婦人が振り返り、
「ああ、あれは鶯じゃなくてメジロ」
「えっ、そうなんですか? 鶯色だから、てっきり鶯かと思いました」
「ううん、メジロよ。見てごらんなさい、目の縁(ふち)が白いでしょ。昔から、『梅に鶯』っていうけど、だいたいはメジロですよ」
日差しの中でそんな会話を聞いていると、このままずっとここに座っていたいようなのどかな気分になる。
席が終わったらしく、障子が開いてぞろぞろとお客が去っていった。やがて戸が開き「どうぞお入りください」と、ご挨拶があった。廊下で待っていた客が順々と一礼し、広間に吸い込まれていく。私もそれに連なった。
薄暗い広間の床の間に、「喫茶去(きつさこ)」という掛け軸と、白い椿の蕾(つぼみ)があった。
席主の老婦人のご挨拶があり、しーんと静まり返った空気の中で、若いお弟子さんのお点前が始まった。
客の前に、うやうやしく捧げ持った菓子盆が置かれ、それが順番に回ってくる。黒い漆塗りの丸盆に、干菓子が中高に盛られていた。一見、何の変哲もない白い長方形の中に、小豆のような黒い点がぽちっと見える。小豆の入った落雁だろう……と思った。
懐紙を膝前に置き、干菓子を一つ手に取った時、指先のふわっとした感触に、あれ? と思った。
「これは珍しいお菓子でございますね」
正客の声が聞こえる。
「太宰府のもので、『清香殿』と申します」
「まあ太宰府ですか。わざわざのお心入れ、ありがたく頂戴いたします」
あたりに「太宰府ですって」というささやきが、さざ波のように広がった。
太宰府といえば、昔、古文の時間に習った菅原道真の短歌である。
「東風(こち)ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」
梅よ、東風が吹いたら、どうか香りを届けて欲しい。私がいなくなっても、春を忘れないでおくれ。
清香殿は、卵白を使った半生菓子である。長方形の表面に、乾かす過程で自然にできる縦皺が幾筋か走り、その筋の向こうに、うすぼんやりと透けて、黒い小豆らしき粒が一つ、にじんでいる。
清香殿の「清香」は、梅の香りのことだそうだ。そう聞いたせいだろうか。じっと見ていると、縦の皺は、空に伸びる枝のようだ。そして、ぼんやり浮かぶ黒い粒は、梅の蕾に見えてくる……。