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知っているつもりだった梅の、本当の香りを知ることで起きた変化

思い出と幸せを分かち合いたくて『こいしいたべもの』を書きました(4)

2017/07/17
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 ある夜のことを思いだした。

 立春をとうに過ぎたのに、しんしんと冷え込む夜だった。

「先生、ありがとうございました」

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「寒いから、ちゃんと身づくろいしてお帰りなさい」

「はい。また来週お願いします。さようなら」

 そんな挨拶を交わして、いつものようにお茶の先生の家を出、社中の仲間としゃべりながら、のんびりと駅に向かった。

 稽古の帰り道は、いつもと同じ景色が冴え冴えと見える。あたりは夜の闇で、吹きつける風は寒いけれど、空気が澄んで、家々の明かりが滲んで見えた。

 その時、気付いた。そういえば、稽古場の門を出た時から、ほのかな香気がひたひたとついてくる。どこからともなく切れ切れに流れてくるメロディーのように、冷たい風に乗ってくる。

 瞼を閉じ、夜気を深く吸い込んだ。

「……」

 胸の奥が冷えて、肺の在りかをはっきりと感じた。次の瞬間、私は甘美な香りにふっくらと包み込まれた。

 目を開くと、通りの向こうに大きな木が見えた。いつも前を素通りしてきた木だった。見上げると、矢のように細い枝が空に向かってツンと伸び、その枝々に、夜目にも白いものがぼんやりと見えた。

 梅だ……。梅が咲いている。

 ハッとした。

 これが梅の香りというものか……!

 今まで、梅の香りを詠った歌や文章をどれほど読んできただろう。自分でも、手紙の中で幾度となく、「梅の香る頃となりました」と書いてきた。

 なのに、知らなかった。この寒さの中でいじらしく咲く小さな花が、これほど甘くかぐわしく、あたり一帯を包み込むとは……。

 その時から、梅は私の人生の内側で咲くようになった。人は心で受け入れて初めて、本当の色や香りに触れる。

©森下典子

 冬の空に向かって、ツンと伸びた枝に、ポップコーンが爆(は)ぜたような白い花がポチッと一粒咲く。それだけで私は、冷たい風の中に、ふくよかな甘い香りが一筋漂い始めるのを感じるようになった。たちまち鳥がやってくる。鶯色で目の縁が白い。メジロである。まだ寒の戻りもあるが、あちこちで梅が三々五々開き始める。すると、目には見えない香りが、窓を閉めた部屋の中にも、どこからか忍び込んで来るのだ。

 私はもうすぐ四十歳になろうという年だった。梅の香りを知るのに、ずいぶん長い歳月がかかったものだ。

 その時、思った。何かを本当に知ることは、一つ一つ時間がかかる。私は今まで、一体いくつのことを本当に知っただろう。たぶん、知ったつもりで素通りしたものがほとんどで、本当に知ったことは数えるほどしかないにちがいない。そして、きっと一生をかけて、ほんのわずかなことを本当に知っただけで、死んでいくのだろう。

 だけど、それでいいと思った。数少なくとも、本当に知ったことだけを大切に味わいながら生きていきたいと……。

 

 清香殿を口に入れた。表面は乾いているのに、口に入れるとマシュマロのようにふわっと柔らかく、ほんのり甘い。

 そして、黒い粒のあたりを食べた瞬間、意外な味に驚いた。小豆ではなく、大徳寺納豆であった。マシュマロのような柔らかさの中で、不意に、味噌のような風味のしょっぱさに出会う。

 それは、冷たい空気の中に漂い始めた一筋の梅の香りにどこか似ていた。

こいしいたべもの (文春文庫 も 27-2)

森下 典子(著)

文藝春秋
2017年7月6日 発売

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知っているつもりだった梅の、本当の香りを知ることで起きた変化

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