「中動態」と「依存症」との出会い
――「依存症」と「中動態」にどのような関係が?
國分 アルコール依存や薬物依存について考える際、多くの場合、依存に陥った「責任」は本人にあると考えられますよね。依存から復帰しない人のことを「意志が弱い」と非難したりします。しかし、人がアルコールや薬物に頼らねばならなくなってしまうのは、それに頼らないとどうにもできない苦しさを抱えているからです。つまり、自分の意志で能動的に依存し始めるのではないんです。にもかかわらず、それを自分の意志で能動的に止めろといわれる。自分の意志で能動的に始めたわけでないものを、自分の意志で能動的に止められるわけがない。ところが、僕らは「能動性」とか「意志」といったものを強く信じている。ほとんど信仰に近いと思います。ではそこまで僕らが強く能動性や意志を信じてしまっているのはなぜか? 僕はそこに言葉の問題から迫ろうとしたんです。
僕らは英文法などで能動態と受動態について学びます。この能動と受動という区別は非常に強い支配力を持っていて、僕らは行為を必ずそのどちらかに分類してしまう。その理由の一つに、僕らが用いている言葉そのものが、能動と受動の区別に依拠していることがあるのではないかと考えたわけです。そのように考えるきっかけをくれたのが、中動態という態の存在です。かつては能動態と受動態の区別ではなくて、能動態と中動態の区別というものがあった。その言語の中では、行為は今とは全く別の仕方で分類されていました。そしてその分類を見ていくと、意志というものがその言語の中では問題にならないことが分かる。能動と受動の対立は、自分で自発的にやったのかそれとも強制されたのかという対立と並行しています。能動と受動の対立が現れるのと並行して、意志の概念が強く信じられるようになったのではないかと本の中では論じました。
――「中動態」という概念には、大学生の頃に興味を持たれたそうで。
國分 はい。中動態のことを初めて知った時には非常に興奮しました。これこそ自分が論じるべきものだと思った。それからずっと中動態を気にはしてきたんですが、なかなか手をつけられなかった。でも中動態のことは、やらずには死んでも死にきれないという思いはずっとありましたね。依存症との出会いがそこで一押ししてくれたという感じです。今こそ中動態について論じなければならないと思った。でも、書き始めるにあたっては、担当編集者の白石さんとの出会いが非常に大きかったです。彼が応援してくれたおかげで最後までやり遂げられた。ものすごい達成感があります。今死んでも悔いはないというか(笑)。
最近は医学に興味があるんですよ
――ハハハ。ひとやま越えられた感じだったんですね。この本をお書きになってより一層、医学の分野に興味が広がったのではないですか。
國分 そうですね、最近は一般医学の方に興味があるんですよ。
――一般医学というのはつまり……。
國分 疲労とかストレス、風邪なんかもそうですが、ごくありきたりの日常の中にあるものを考えたり扱ったりする医療や医学ですね。哲学と医学というとずっと精神分析が大きな力をもっていました。というか、20世紀の哲学は精神分析の知識を抜きにしては絶対に理解できません。僕もそういう勉強をしてきたわけですが、精神分析と哲学が接近した際に論じられてきたのは非常に極限的な病のことでした。具体的には統合失調症です。70年代ぐらいから、あるいはもっと前からも、この極限としての統合失調症にこそ人間の真理があるという考えが支配的でした。それにはもちろん一定の意義がありましたし、その考えのもとで素晴らしい達成がいくつもなされました。今でもこの考えは重要です。けれども、僕はそれだけじゃなくて、もっと日常に近いもの、一般医療とかそういうものにも関心がありますし、もっと哲学がこれを論じなければならないと思っているんです。退屈というありふれた現象をとことん論じた僕の『暇と退屈の倫理学』の根底にあるのもそういう関心ですね。