作家・車谷長吉さんが、誤嚥による窒息のため69歳で亡くなったのは、2015年のことだった。
稀代の小説家を看取ったのは妻で詩人の高橋順子さん。2人の出会いは29年前、車谷さんから突然届いた1枚の絵手紙に遡る。
「古風な出会いでした。絵手紙は毎月1通ずつ計11通届いたんですが、独り言のようなことが書いてあったりして、受け取るたび薄気味悪い気持ちでいました」
その後、紆余曲折を経て、1990年の大晦日に、初めて車谷さんと会った。
「ああいう絵手紙を寄こすのは、どういう人かなぁという興味で会ったんです。でも何にも喋らなくてやっぱり薄気味悪いな、と(笑)。ただ、喫茶店を出て表で見ると、とても綺麗な目をしている人だと思いました」
翌年、小説集を自費出版したいと相談を受け、2人は頻繁に会うようになる。93年、「生前の遺稿」として書いた『鹽壺(しおつぼ)の匙(さじ)』が2つの文学賞を受賞。その受賞エッセイには、愛の告白めいた言葉があった。それを読んだ高橋さんは、この作品を最後に出家するつもりだった車谷さんに「この期におよんで、あなたのことを好きになってしまいました」と手紙を書き、車谷さんは「こなな男でよければ、どうかこの世のみちづれにして下され」と答えた。
こうして遅い結婚をした2人だったが、高橋さんは、
「結婚生活は、それは楽しいこともありましたが、修行のようなものでしたね」
と言う。結婚から2年後に車谷さんが強迫神経症を発症、夫婦が共倒れする危険が常にあったからだ。
「でも不思議と、離婚しよう、と言う気にはなりませんでした。それを言ったら、あの人は絶対『はい、わかりました』と言うと思った。試そうとすら思いませんでしたし、あの人も一度も離婚を口にしませんでした」
低迷期から『赤目四十八瀧心中未遂』での直木賞受賞、ピースボートでの世界一周旅行やお遍路などについて書かれるが、その間、2人は片時も離れずにいた。
2人が最も大切にしたのは、原稿を互いに見せ合う時間だったという。
「そうしないと編集者に渡さない、儀式のような時間でした。車谷は命にかえても書きたいと思っていたし、私にとっても、詩を書くことはこの上ない喜びでした。互いに一番大切なものを最初に読んでもらい、読ませてもらう。それは本当に幸せなことでした」
まさに「この世のみちづれ」として、2つの魂が深く交流した夫婦関係だった。
『夫・車谷長吉』
「形容詞形容動詞を使って高橋さんの詩の感想を述べることは、一切無価値である」。車谷嘉彦(作家・車谷長吉の本名)の署名が入った、1通の絵手紙をもらったのが最初だった。やがて2人は結婚。その後の強迫神経症発症、直木賞受賞、お遍路、そして不意の死別――。車谷文学を支えた妻が、3回忌に綴る回想録。