坂茂、伊東豊雄、SANAA(妹島和世と西沢立衛)……。世界的に権威あるプリツカー賞を近年、日本人が連続して獲っている。そうした事実は、国内でほとんど知られていない。建築が話題となるのは耐震偽装や新国立競技場のドタバタなど“不祥事”ばかりだ。
五十嵐太郎『日本の建築家はなぜ世界で愛されるのか』(PHP新書)はそんな国内外の温度差を埋めようとする。とはいえ五十嵐は最近流行の「日本すごい論」に加担したいわけではない。歴史を視野に入れて「なぜ」の理由を丁寧に探り、「都市が空襲で焼かれ、戦後、極端な住宅難から再出発したこと」が多くの設計の機会を彼らに与え、才能を開花させたと考える。
敗戦に創造力の源泉をみる姿勢は、敗北の底から世界を見上げつつ育まれる感性と知性に注目した加藤典洋『敗者の想像力』(集英社新書)にも通じる。たとえば敗戦後のつつましい庶民生活を抑制の効いた演出で描いて国際的な評価を得た小津安二郎の映画を加藤は取り上げているが、小津と五十嵐のいう「世界で愛される」日本人建築家たちを連続的に論じることで得られる発見もありそうだ。
大江健三郎の晩年の作品『水死』も加藤の議論の対象となる。国家の暴力を描き、老いてなお「戦後民主主義の文学者」として生きようとする、そんな大江を論じて加藤が用いた「負けることを最後までやりとげる戦い」という表現は、毛受敏浩『限界国家』(朝日新書)を読む時にも脳裏に留まっていた。
日本の人口は二〇五〇年代までに三五二三万人も減るという。国家存亡の危機を回避したければ、留学や研修の名目で外国人に単純労働を担わせている欺瞞的な現状を改め、本格的な移民受け入れを検討すべきだと毛受は訴える。
そこで反実仮想をひとつ試したくなる。もし大東亜共栄圏が実現していれば日本の人口構成はどうなっていただろうか。多民族共同体構想を画餅に終わらせ、日本を敗戦に導いた偏狭なナショナリズムは戦後も潜在し、移民の受け入れを拒んでいる。その排除の姿勢を今度こそ放棄する“一周遅れの敗戦処理”を「最後までやりとげ」られるかが問われていると考えれば、人口問題にも敗戦の影が及んでいるのだ。
同時期に執筆された書籍の内容が著者の意図すら超えて響き合うことがある。だからこそ、新書の場合も新書「間」のつながりまで読み込む読書をお薦めしたい。時代の社会の陰影は、そこにより立体的に浮かび上がって来るだろう。