認知症当事者が、当事者のために本を書いた。
「ネッツトヨタ仙台」でトップ営業マンだった丹野さんは30代半ば頃から体に異変を感じ始めた。お客さんの顔を忘れる、受話器を置いた途端に用件を忘れる。「若年性アルツハイマー型認知症」と診断されたのは39歳の時だ。当時娘たちは小学生と中学生。どんな仕事でもいいから働き続けさせてほしい、と当時の社長に診断名を伝えると、即座に「長く働ける環境を作ってあげるから戻ってきなさい」と言われる。
「忙しい会社ですから、うつになる人もいる。病気になっても戻れる社員には戻ってきてもらう、というのが社長の考えだったそうです。ただ“認知症”のケースは初めてでした」
丹野さんは総務人事グループに移り、社員の退職金を計算する業務等に携わるようになる。刮目すべきは独自に編み出した「丹野式仕事術」だ。まずノート術。2冊あり、1冊目には仕事手順が詳細に記されている。書類出力に関しては「このプリンター、この判型の用紙、この向き」まで書いてある。誰が見ても間違いようのないマニュアルなので、借りにくる人もいる。もう1冊はその月にやるべき仕事のリストで終了したら印をつける。何をするのか、どこまでやったのか、すぐに忘れてしまうが故の苦肉の策。結果としてミスは少ない。次に時間帯により仕事の種類を変える方法。頭がスッキリしている朝9時から2時間は計算等に充てる。昼前にやや簡単な仕事に変え、昼食後は頭を休めるため20分の昼寝が認められている。それからやや頭を使う仕事。明らかに疲れてくる夕方は単純作業をやる。
「今の私には1日同じ仕事を続けるのは難しい。出来ないことを頑張るのではなく、出来ることを一生懸命やることで周囲から認められたいと思っています。たとえば、人がやりたがらない仕分け作業は、私は疲れてくると計算等は出来なくなるので、ちょうどいいんです」
この本のカバーに輝くばかりのご本人の笑顔が載っているが、読後、印象に残るのは同期同士の結婚だったという奥さんの笑顔だ。丹野さんが自宅傍の停留所で降り忘れ、バスで通り過ぎていくのをガーデニング中の奥さんが笑いながら見ている。ちょっとした失敗を咎めずにほうっておく、という家族の態度がいかに認知症当事者を安心させ元気にするか、ということを教えてくれる。
『丹野智文 笑顔で生きる 認知症とともに』
若年性アルツハイマー型認知症と診断された著者の、診断前後の不安定な時期、元気な「先輩」当事者と出会い生きる力を取り戻した事、仕事や暮らしを続けていく上での工夫、スコットランドの認知症の人達との交流等が綴られる。丹野さんの書いた膨大な原稿を、ノンフィクション作家の奥野修司さんが再構成した。