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人は「SNSに記録されている一面」がすべてではない

 ネットフリックスで人気のSFドラマシリーズ「ブラック・ミラー」のシーズン2に「ずっとそばにいて」という物語がある。レプリカを進化させたようなサービスが登場し、テキストでのチャットだけでなく音声で、さらには故人の映像も再現してビデオ通話も可能になった未来を描いている。実際、動画を合成するディープフェイク技術も最近は出てきており、この未来はそう遠くはないだろう。

 主人公のマーサは不慮の事故で亡くなった夫アッシュを、このサービスで甦らせる。技術が進化して音声も映像も不気味の谷を超えており、マーサは楽しく夫と話し続ける。しかしこのサービスにはさらに先があって、なんと故人を模して生身の肉体を持ったアンドロイドまでも提供してくれるのだ。

 ここに至って、マーサは違和感を感じるようになる。それはアンドロイドの外見が不気味の谷を超えていないということではなく、アンドロイドが夫アッシュの人格を完全に再現していないことに気づくということなのだ。なぜなら偽アッシュはいつも楽しげで、鬱々とした表情はいっさい見せないからだ。マーサが「調子のいい日の彼によく似てる」と言うと、偽アッシュは答える。「人はそういう写真を残すものだからね」

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 これはまさに、深層学習による特徴抽出の限界を示している。故人の過去のメッセージや音声、動画などをもとに彼を再現しようとすると、どうしても「SNSに記録されている一面」ばかりがクローズアップされることになる。本当はSNSに投稿されない局面でイライラしたり怒ったり、塞ぎ込んだりしているはずなのに、そういう面は機械学習の元データに含まれないため、再現されないのだ。

 ではこれからの未来に、仮にSNSだけでなく人生のすべてが記録されていく総ライフログ時代がやってきたらどうなるのだろうか? そこから抽出される人格は、その人のすべてを表していると言えるだろうか?

 だとしても、それはやっぱり偽物じゃないかという反発はあるだろう。では私たち人間という存在の本質は何なのだろうか? シンギュラリティの文脈では、人間の精神そのものをコンピュータに移し替えることが将来可能になるのではないかと考えている人たちもいる。そこで移し替えられるものとは何だろう? それは自己意識なのか、人格なのか、それとも神経細胞の活動電位の集合体なのか。そういうことも検討しなければならなくなってくる。