人間は自分が自分であることをどう認識するのか
ここから先の議論は、宗教的な価値観の領域になるのだと思う。
そもそも人間の死とはなんだろうか。真偽不明の臨死体験を別にすれば、自分の死を経験したことのある人はいない。私たちにとって死とは、つねに他者の死でしかない。
私たちは自分が自分であることを、「自分がいまここにいるのだ」という自己意識や「なんてこの世界は美しいのだろう」と感じることのできるクオリアなどに拠っている。しかし私たちは、どんなに仲の良い家族や友人であっても、他者の自己意識やクオリアを認識することはできない。
そもそも、ある生物に自己意識があるかどうかを直接的に調べることはできない。自己意識はヒト以外に類人猿やイルカ、ゾウ、一部の鳥類や魚類にもあるとされているが、これを調べるのにはミラーテストが用いられている。自分が映った鏡を前にしてどう反応するかどうかで、自己意識があると間接的に判断しているのだ。
「哲学的ゾンビ」という哲学の命題がある。普通の人と同じ肉体と組織を持ち、人と同じようにしゃべり、行動し、見た目も普通の人間であるけれども、自意識やクオリアはを持たない存在があるとしたら、私たちはそれが人間であるかどうかを区別できるかどうか。神経細胞のしくみが完全には解明されていない現在の科学では、それは区別できない。
ひょっとしたら、これを読んでいるあなた以外の地球上の全員は哲学的ゾンビかもしれない。しかし仮にそうであっても、哲学的ゾンビたちがあなたに普通に接し、一緒に過ごし、ともに良き人生を歩んでくれているように見えるのであれば、何も問題はないのではないだろうか。
親しかった故人への思いも同様である。亡くなった人たちの自己意識は神経細胞とともに物理的に消滅してしまったとしても、彼らが生前と同じように私たちに接してくれているのであれば、その人は「死んでいることにはならない」と言えるかもしれないのだ。
テクノロジーはそういう未来を作っていこうとしている。だから私は新著「時間とテクノロジー」でこう書いたのだ。
「時系列が意味をなくしていく二十一世紀には、時間からも空間からも解き放たれたすべての他者が眼の前に存在しています。それは新しい音楽であり、古い音楽であり、新しい書物であり、古い書物であり、いま生きている人であり、いずれ生まれてくる人であり、すでに亡くなっている人たちでもある。それらすべての他者が、同時に目の前にあり、私たちに用意されているのです」