いまから81年前のきょう、1936(昭和11)年7月31日、ドイツ・ベルリンでの国際オリンピック委員会(IOC)の総会で、4年後の第12回オリンピック開催地を選出するIOC委員による投票が行なわれた。その結果、立候補していた東京は36票を獲得し、対抗馬となったヘルシンキ(フィンランド)に9票差をつけて開催地に決まった。
このあと、ベルリンからは「東京決定」を伝える日本向けのラジオ放送が行なわれた。IOC委員の副島道正は感激のあまり当初は声が出ず、マイクロホンの前で泣きながらも、「日本は世界のこの信頼に背かず、1940年の大会を意義あらしめねばならない」と語った。同じくIOC委員の嘉納治五郎は、放送のなかで「思いがけない大勝だった。24年前に金栗(四三)、三島(弥彦)の2選手を連れてストックホルム(五輪)に行ったときは、まるで勝海舟が渡米したときのような気持ちだった。東京での開催は、オリンピックが真に世界的なものになると同時に、日本の真の姿を外国に知ってもらうことができるので、二重にうれしい」と述べている(橋本一夫『幻の東京オリンピック』NHKブックス)。
東京が五輪招致に乗り出したのは1930年のことで、それから6年での開催決定となった。当時の東京市長・牛塚虎太郎は「多年の宿望を達成した」と喜色満面で語り、東京市内では8月3日から3日間、花火の打ち上げや講演、音楽会などの祝賀祭が繰り広げられる。首相の広田弘毅も「これは世界各国の我国に対する正しき理解の結果と解され、一層本懐の至り」との談話を発表した。
ただし、他方では懸念の声もあった。社会主義者の山川均は、時評のなかで「一九四〇年の、東京オリンピックの明朗性に、いまから一抹の曇りをかけている問題がある」として、4年前に中国東北部に成立した日本の傀儡国家「満州国」の問題をあげた(『文藝春秋』1936年9月号)。実際、この2年前の極東選手権競技大会で、満州国は一旦は招待を受けるも、中国の反対により退けられたため、今度は日本国内で大会のボイコットを訴える運動が激化していた。山川は、東京五輪に満州国が参加を要求すれば、問題が再燃すると危惧したのだ。
だが、東京五輪は、37年に起こった日中戦争の戦局悪化により、翌38年7月15日、近衛文麿内閣によって開催返上が決まる。1940年の五輪は結果的に、山川の予想を上回る問題により幻に終わったのである。