一九五〇年代、日本では数多くの戦争映画が作られていたが、その大半は戦争の悲惨さ、理不尽さを正面から訴える社会派の反戦作品だった。当時はまだ敗戦の傷跡が生々しく残っており、しかも欧米におけるナチスのような明確に「悪」と位置づけできる相手と戦っていたわけではないので、ハリウッド映画的に戦争を娯楽映画の題材として描くことは難しかったのだ。
そうした状況に風穴を開けたのが一九五九年、岡本喜八監督の『独立愚連隊』だった。岡本喜八は本作で、「暗く湿った」日本の戦争映画を「明るく乾いた」世界へと捉え直す。
舞台となるのは、中国戦線の最前線の砦。そこでの人間模様の描き方がユニークだ。砦を守るのは「クズばかり集めた警備隊」こと「独立愚連隊」。彼らは戦闘そっちのけで、博打にあけくれていた。そして、酒を手に入れるため、平気で現地民と取引、手元の手榴弾と物々交換することもあった。その姿はいつも賑やかで楽しげでコミカル。悲壮感がまるでないのである。
そして、本作での岡本喜八の狙いが端的に表れているのが、主人公・荒木(佐藤允(まこと))のキャラクター像だ。
冒頭から、颯爽と馬を駆って荒野を奔(はし)って登場。いつも陽気な笑顔をたたえ、頭が切れて、女にモテて、男気があって、腕も立つ。そんなフィクショナルなまでにヒロイックな軍人は、それまでの日本の戦争映画に登場しなかった。
岡本は、中国戦線を舞台に「西部劇」をしようとしていた。そのために、主人公を陽気なヒーローに設定したのだ。特に後半になると、その色が強く出てくる。ゴーストタウン状態になった大隊基地の街での、全ての悪の黒幕である大隊長代理(中丸忠雄)との拳銃早打ち勝負、無勢になった愚連隊に「インディアン」の如く地面を覆い尽くすほどの数で襲いかかる中国八路軍――。岡本は中国の荒野をアメリカ西部に見立て、大アクションを繰り広げていった。
ただ、本作が娯楽一辺倒の映画かというと、そうではない。「正義とか良心とかそんなくだらんものを振り回してみろ。命がいくつあっても足りねえや」をはじめとする、大義より命を守ることを第一とする愚連隊隊長(中谷一郎)。そんな隊長の死を知った主人公がラストに呟く「死にたくない奴はみんな死んだ。生きててもしょうがない俺だけがまだ生きてる」というセリフ。岡本は、西部劇テイストの中に、理不尽に命を奪う戦争への怒りを、織り込んでいた。
そのため、観ている時はあれだけ楽しかったのに、観終えると心は空しい。娯楽と反戦の融合という物凄いことを岡本喜八はやってのけたのだ。