看板を撤去しても過去は消えない…でも自分たちの未来はこれから
自宅の窓には、原発事故後に書いて、貼り付けた言葉がいくつもあった。
「帰りたいけど帰れない/故郷を離れていても/双葉町はいつも心の中にある/震災四年」
「原子力惨禍招く死のエネルギー」
「明るい未来を信じて/いつか帰れる日まで」
「原発過去/癒えず」
「前事不忘」
しかし、避難指示解除が決まったことで、それらを外すことにした。解除されたことで多くの人が町に入ってくる。不動産を営む者としては、景観上、よくないと思ったようだ。しかし、標語の想いは今でも残っている。そして、新しく「未来」と書いたフレームを、窓の外から見えるように置いてきた。
「看板を撤去しても、過去は消えないんです。そんな意味で書いていました。言葉自体の想いはそのままです。魂は消えない。でも、張り紙を外すことで、少しでも前に気持ちを向けられればいいですね。自分たちの未来はこれから。モチベーションをあげていきたい。そして、一つひとつ課題を解決して、次こそ、明るい未来にしたい。故郷の未来も、自分の未来も。結果的に、あのとき(原発事故)があって、今があると思えればいい」
9年前のままの小学校、避難所を開設していた形跡も
自宅の近くには3階建てのビルがある。所有者の許可を取り、屋上にあがった。
「先日も、この屋上にあがったんです。小学校のとき以来でした。ここは双葉町が一望できる場所です。ここからも、原発の排気筒が見えるんですね。中間貯蔵施設も見えますね。あの奥に太平洋が見える。山のほうに東電の社宅も見えます。あれはうちの土地だったんですよね。
双葉駅も見えますが、ここを聖火ランナーが通るのかな? まだルートが発表になっていないですが、なるべく光(復興)を見せたいはずですから、影(中間貯蔵施設)は見せたくないでしょ」
小学校を訪れると、9年前のままだ。1階にある、保育園が避難した部屋には、今でも、2011年3月のカレンダーが置かれている。9日のところは「おととい」、「10日」のところには「昨日」、11日には「今日」と書いた紙が貼られている。ここは時間が止まっている。体育館も避難所になったが、入り口には「修・卒業証書授与式々場」との案内が掲げられていた。
中学校では、30年前の中学2年生のときに、友達とかくれんぼをしていたときに作った“穴”を探したが、事故前のことだろうが、すでに修復されていた。震災時には、学校という場所は避難所になることが多い。小中学校ともに避難所を開設していた形跡がいまだにある。しかし、大沼さん夫婦は学校には避難していない。
「震災のときは震度6強を体験し、近くで火事も起きていました。そのため、直感的に原発が危ないと思いました。津波という意識はありません。自宅に戻ったときには停電していました。そのため、南相馬市の道の駅に避難しました」