スコアボードでカウントダウンを 甲子園出場校の双葉高校
3月13日には、原発から100キロ離れている妻の実家のある会津地方へ。しかし、放射性物質の飛散への不安から、愛知県安城市にも避難し、6月に長男を出産する。最終的には茨城県古河市に移り住んだ。
ちなみに、双葉町にある福島県立双葉高校は、甲子園に3回出場したことがある。相双地域で唯一の出場校だ。別の高校出身だが、大沼さんも応援していたことがある。野球グランドにあるスコアボードには、
〈2011 春 42日〉
〈夏 124日〉
と、カウントダウン表示が今でも残されている。
双葉海浜公園からは、第一原発の建屋を見ることができる。
「震災前は、ここでよく海釣りをしていました。震災後は、晴れているときには建屋やキリン(クレーン車)も見えますので、『どうなっているのかな?』と見たりしていました。今回は、排気塔が切れている(短くなっている)ことがわかりますね。海は、きょうは静かですが、荒れている日もあります。福島ブランドで築きあげてきたものもあります。汚染水を流すのは不安ですね」
日本有数の電源供給基地だったことを、きちんと伝えたい
ところで、大沼さんは一時立ち入りをするたびに、写真や動画を撮り、記録している。車内からも運転しながら、街中を動画で記録できるようにしてある。機材もそのために購入している。こうした記録を残す意味をどう感じているのか。
「この震災から9年は何だったのか。町は解体され、きれいになっていく。子どもたちにとってはそれが最初の印象となる。伝えなければいけないと思っています。僕たちの時代は、町は、原発とともに生きてきた。そのおかげで関東地方が潤ったんです。この地域は、日本有数の電源供給基地だった。これをきちんと伝えたい。温故知新です」
記録したものは相当の量だ。その一部は発表しているが、それ以外はどうしているのか? YouTubeなどに動画を上げないのか?
「(YouTubeへの)載せ方がわからないんです。簡単にできるんですか? 機会があったら、上げたいですね」
「数年は混み合うことが予想されます」
震災から9年。大沼さんが見てきた原発立地の町は大きく変貌してきた。中間貯蔵施設の建設も始まっている。3月7日には、常磐自動車道の、大熊インターチェンジ(IC)と浪江ICの間に、常磐双葉ICが開通する。また、14日には、常磐線の不通区間(富岡―波江、20.8キロ)で運転再開する。
2年後に町民の帰還が始まることになったが、大沼さんはなにを思うのか。
「引っ越しやクリーニング、修繕などの業者に限りがあります。それだけでも数ヶ月、あるいは数年は混み合うことが予想されます。気が遠くなります。業者としても、同じ近場であれば(双葉町など)汚染地帯に来たがらないのもわかります。そのため、すぐに復興もできません。
震災から9年となれば、その期間は空き家でしたので、建物も痛んでいます。インフラもまだ整っていません。それに壊れた原発や中間貯蔵施設が近くにあるとなれば、目に見えない不安があります。ただ、完全に不安が払拭されてから解除となれば、故郷に帰れないまま亡くなる人も多くなります。近所の方々が亡くなったことを広報の死亡欄を見るので、複雑です」
避難指示が解除されただけで、町民には未来が見えず、不安がつきまとう。復興の道筋は不透明だ。
写真=渋井哲也
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