同判決を契機に韓国内では元徴用工問題は“強制連行・奴隷労働”の歴史だったという議論が再沸騰し、ソウル龍山駅前などの各地に徴用工像が相次いで設置される事態となったのだ。
元徴用工問題をめぐる「新資料」
果たして元徴用工問題の真実とは何だったのか。
拙著「韓国人、韓国を叱る 日韓歴史問題の新証言者たち」(4月2日発売 小学館新書)では、私が取材のなかで発掘した徴用工に関わる「新資料」を紹介している。
その資料とは呂運澤(ヨ・ウンテク)氏の発言記録だ。
呂氏は日本製鉄相手の韓国・徴用工裁判において、被害者の一人として名を連ねていた人物(故人のため 現在は遺族が原告となっている)だ。つまり、元徴用工問題の根幹を成している徴用工裁判において、原告となっていた重要人物の証言記録であるといえるだろう。
呂氏はかつて日本で対日補償請求裁判を起こしていた過去がある。私が入手したのはそのとき彼が裁判用にしたためた「上申書」である。
「日本に行って立派な技術者になれ」日本行きの経緯
呂氏は上申書の中で日本行きの経緯をこう話している。
〈一九四三年八月ころ、私は、日本製鉄株式会社大阪製鉄所第二期訓練隊100名の募集が平壌であるという新聞記事を読みました。
当時、技術を身につけたいという気持ちが大きかった私は、この記事に関心を持ち、同年九月六日ころ、国民学校の校舎で行われた説明会に出席したところ、陸軍中尉キタガワ、陸軍軍属カワイ・ソキチほかの人々から説明があり、大阪で二年間の技術訓練ののち朝鮮の清津製鉄所または兼三浦製鉄所(原文ママ)において指導者として勤務するという内容で、私は、ますます興味をそそられました。
当時、「寿町理髪館」(筆者注・呂氏が勤務していた理髪店)主人の江藤さんは、「理髪店見習いを始めたばかりなのに」と言って、私が行くことに反対しましたが、朝鮮人の同僚たちはみな、日本に行って立派な技術者になれと言って賛成してくれたので、私は応募することに決めました〉
前述したように韓国内では徴用工問題は“強制連行・奴隷労働”であるとされてきた。しかし、この上申書を見る限り呂氏が日本に行くことになったのは「募集」に応募したからであり、「強制連行」ではなかったことがわかる。当時、日本での裁判用に支援者が呂氏をヒアリングした「『太平洋戦争犠牲者遺族会』原告 個別調査事項」という資料を見ても、呂氏はヒアリングに対して「平壌国民学校で募集を受けた」と回答をしている。
こうした事実は、いかに徴用工を巡る議論が大ざっぱなものであるかということを示唆している。