昨年の大晦日のNHK紅白歌合戦で歌われた曲のうち、Foorinの「パプリカ」、菅田将暉の「まちがいさがし」、それから「NHK2020ソング」としてこの日初めて披露された嵐の「カイト」には共通点がある。それはいずれもシンガーソングライターの米津玄師が作詞・作曲した作品だということだ。米津は前年の紅白には歌手として出場し、大ヒット曲「Lemon」を歌っている。昨年も「馬と鹿」などのヒットがあったが、結局出場はしなかった。それでも「カイト」を初披露する企画コーナーでは、制作風景が紹介されるとともに、米津が嵐のメンバーと対話する模様がVTRで流された。こうして昨年の紅白は、前出のアーティストへの提供曲もあわせ、本人は歌わないにもかかわらず、現在の日本の音楽シーンにおける米津の存在感を強く示す結果となった。きょう3月10日は、その米津の29歳の誕生日である。
BUMP、スピッツ、アジカンとの出会い
米津玄師は1991年、徳島県に生まれた。子供のころはマンガ家になりたかったという。松本大洋や五十嵐大介のような、白黒の線が濃密に重なった絵が好きで、自分でもシャープペンシルやボールペンで描くようになった。その画力は、現在もアルバムのアートワークなどで発揮されている。2016年には『かいじゅうずかん』という絵本も刊行した。
音楽との出会いは小学5年のとき。自宅にインターネットが開通したのがきっかけだった。当時、フラッシュアニメが流行っていて、そこに乗せる音楽としてBUMP OF CHICKENなどの楽曲が使われていた。ここから、BUMPのほか、スピッツ、ASIAN KUNG-FU GENERATIONといった邦楽ロックにのめり込んでいく。《俺にとっての音楽って、最初から画面の中で流れてるものだったんです。パソコンの向こう、インターネットの向こう側からやってくるものだった》(※1)というのが、デジタルネイティブ世代ならではといえる。
中学の文化祭でオリジナル曲披露
そのうちに聴くだけでなく、自分でも曲をつくりたい気持ちがどんどん強くなっていった。中学2年のときには友人たちとバンドを組む。文化祭ではオリジナル曲を披露した。演奏はひどかったが、曲はあとから振り返ってもよかったという(※2)。
バンドはその後、メンバーが別々の高校に進んだこともあり、自然消滅する。そもそも米津は、単純に曲をつくるフォーマットとしてそれ以外の選択肢がなかったので、バンドを組んだだけで、ステージに立ってライブをしたいといった欲求はなかったという。替わって彼が出会ったのが、ニコニコ動画だった。自分が1人でつくったものでも、ここにアップすれば人に聴かせられると知ると、元バンド仲間の幼馴染(その後、米津のサポートメンバーも務めるギタリストの中島宏士)の協力も得ながら、どんどん曲をつくっては公開していく。