高校卒業後の“ボーカロイド時代”
高校卒業後、大阪の美術
《ボカロ時代に関しては、楽しかったなって記憶しか残ってないんです。今思うと、最初の頃の曲とかは、ボーカロイドっていうものを通しただけで、昔、自分で歌っていた頃とやってることはそんなに変わってないんですけど。でも、初音ミクっていうフィルターを通しただけですごくいろんな人に聴いてもらえるようになったし、その界隈に足を踏み入れたことによって、いろんな人やいろんなジャンルの音楽を知ることができた。ボーカロイドがなければ出会ってなかっただろうなっていう人と出会えたりもして、すごく刺激的な空間でしたね》(※3)
当時のボーカロイド界隈はまだ混沌としており、多種多様な音楽性を持った人がたくさんいたという。そのなかでハチの作品は人気を集め、「マトリョシカ」「パンダヒーロー」といった曲は公開されると一気に100万回再生を超えた。
ツイッターだけが心の支えだった1年
しかし始めて2~3年ほどしてボカロを一旦やめてしまう。それから1年くらいは、ほとんど外にも出ず、毎日パソコンの前でボーっとしているような時期を送ったという。自分が生きる価値を見出せず、唯一残った心の支えはツイッターだった。鍵をかけて誰にも見られない状態にしたアカウントに、自分が思っていることなどをずっと書く日々。それでも彼のことを好きでいてくれる人たちがおり、言葉を発すれば好意的な返事をくれた。《何度も何度も消そうと思ったんですけど、やっぱそれは消さずに残ってて、それに救われたこともありましたね》(※2)。
そんな状況のなか、実名の米津玄師で、自ら歌い、個人で制作したアルバム『diorama』(2012年)をリリースする。同作はインディーズ盤ながらオリコンのランキングで6位に入った。これを機に『ROCKIN'ON JAPAN』が「10年に1度の才能」と彼を大々的にとりあげるなど、ロックメディアで一躍注目される。