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本田宗一郎が48歳の時に綴った「モノづくりへの渇望とホンダ創業前夜」(前編)

本田宗一郎が48歳の時に綴った「モノづくりへの渇望とホンダ創業前夜」(前編)

オートバイに生き抜いた男の立志伝

2017/08/19

source : 文藝春秋 1955年10月号

genre : ビジネス, 企業, テクノロジー, 経済

note

最初の障壁「学問」

 こうして6年、私は修理工場での奉公を勤めあげた。一通りの構造、修繕を呑みこんだし、その間に自動車の運転も習得した。自由に自動車を駆使し、大都会の石疊を走り回る、私の最初の希望はまずまず達成されたのである。

 22歳の春、私は故郷に戻り、浜松市でささやかな修繕工場を営んだ。工場などと義理にも言えるものでなく、工員も私一人という貧弱極まるものだったが、私の腕にだけは自信があった。

 当時浜松に、他には2、3軒ぐらいしか修理工場がなかったが、考えてみれば修理工場の伸長などタカが知れている。いくら上手だといえ、東京からわざわざ修理に来るわけでなし、いわんや自動車の国アメリカから依頼がくるなど、考えることも出来ぬ。そこで私の考えた事は、こうだった。

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『修理は所詮修理にすぎず、経験さえ積めば万事O・Kだ。だがこれに一生を費やすのは、実に他愛がない。人間矢張り生きてる限り、自分の手で何かこしらえる、工夫し考案し、そして役立つものを作るべきだろう。他人様の作ったものを修繕するという、尻馬に乗った商売なんか、犬に食われてしまえ。自らの手で、頭で何か作ってやろう。一歩前進してみようじゃないか』

ピストン・リング研究に没頭する、1940年頃の本田氏 写真提供:Honda

 せっかちで向う見ずなのが、私の性分である。こう決心したらそれまでだ。工員50名ほどいるところまで伸び切った修理工場をあっさり畳むと、私は直ぐピストン・リングの製造工場に切換えたのである。

 ピストン・リングとは、分り易く説明し難いが、発火室に潤滑油が入らぬようにとめる輪で、エンジンのかなめとも言える部分である。その頃既に理研などでは、大分製造していたが、未だ日本ではそれ程研究が進捗しておらず、民間で製造するものは殆んどなかった。まず最初から、私は難しい仕事を選んでみたのだが、難しいの難しくないのの話ではない。私の考えの如何に甘いか、私は嫌という程、思い知らされたのである。

 それより前、25歳の時だったか、私は自動車のホイル(タイヤをとりつける車輪の中心部)の特許をとった。それまでは木のスポークを使用していたが、我国は乾湿の度合が甚だしく、その精巧度は狂い車輪の力が損なわれがちであった。それを鉄を使用することに変えたのである。その結果非常に好評で、印度あたりへも輸出し、大へんな金もうけになった。

 従って私は資力的には既に恵まれていたのだが、ピストン・リングの製造を開始するや、瞬時にしてその大部分をすってしまった。失敗につぐ失敗、それは結局私に基礎がない為に他ならない。この時程、私は自分がその学校時代、学問を放擲して遊びに耽っていたことを悔いた事はない。

 学問は学問、商売は商売だ、と別物に見なして説く人もあろう。確かにそうとも言えよう。しかし学問が根抵にない商売は投機に過ぎず、真の商売することの味は分らない、と言えるのではないだろうか。私ごときが厚顔な言い分だ。だが、骨身にしみた自らの基礎の薄弱さを悔いる経験が、強く私にそう悟らせたのだ。

 30歳の手習いだった。今更何をと笑われながら、浜松高工の安達校長先生に依頼し、3年間の聴講生を許可して貰ったのである。生活を顧みれば、この時代が最も苦しい時であったろうか。

後編(http://bunshun.jp/articles/-/3671)につづく

本田宗一郎が48歳の時に綴った「モノづくりへの渇望とホンダ創業前夜」(前編)

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