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本田宗一郎が48歳の時に綴った「オートバイとレースへの情熱」(後編)

本田宗一郎が48歳の時に綴った「オートバイとレースへの情熱」(後編)

レースでは瀕死の重傷、街ではスピード違反

2017/08/20

source : 文藝春秋 1955年10月号

genre : ビジネス, 企業, テクノロジー, 経済

note

 本田技研工業(ホンダ)が創立されたのは1948年。当時、創業者の本田宗一郎は41歳だった。

 この手記が月刊誌「文藝春秋」に寄稿されたのは、それから7年後のこと。まだ世界的にはまったくの無名企業だったが、オートバイにすべて情熱を注いでいた男の立志伝からは、その勢いと自信の程をうかがうことができる。

(前編[http://bunshun.jp/articles/-/3664]から続く)

 

出典:『文藝春秋』1955年10月号「バタバタ暮しのアロハ社長」

(なお、転載にあたって、現代読者に読みやすくするため、旧かな遣い、漢字表記を一部改めた)

競走自動車の選手

 しかしどん欲な私の生活力は、我ながらすさまじいものがあった。その気になりさえすれば、瓦の上に種まかれても芽を出す、そんな意欲だけは、何時でも湧いてくる。

 研究はうまくゆかず、といって50人もの工員に給料を支払わぬ訳にはゆかず、甲斐性のない話だが、女房のものまで質屋に入れた有様であった。

 爐の側に12時1時までしがみつき、寒い冬の夜など、酒を一杯ひっかけて、むしろの上にゴロ寝である。髪は伸び放題で、耳までかぶさってくるが、理髪店へゆく暇もなかった。聴講の最中でも、何か教授がヒントになるような事を講義すると、飛んで家へ帰り直ぐ実験してみたかった。三度三度の食事は妻が運んで来たが、

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「おい、鋏もってきて髪を切ってくれ。うるさくて叶わんから……」

 と命令する。そして実験の手を休めずにチョキンチョキンとやって貰ったものだ。

 桃栗三年という。私の研究製作もそうだった。途中で投げるという簡単な具合にはゆかず女房子供をはじめ、多くの人々の生活がかかっており、止めれば飢え死ぬより他はなかった。そして数年伸び縮みの果てにやっと前途に明るい曙光を見たのである。ところがその頃私は、いつの間にか、浜松高工を退学になっていた。もっともな話だ。月謝は納めぬし、試験は受けないのだから、学校もおいておけなかろうが、退学にもめげず私は更に1年以上も通学し、講義をきいていた計算になる。

バイクにまたがる本田氏 ©共同通信社

 こうして私は自ら工夫し製作したエンジンを使った競走用自動車に乗り、まずは自分の成果を実地にと、多摩川べりで開催されていたレースに初めて出場してみたのだった。勿論自信あっての事だから、意気揚々たるものがある。

 そして私は、それからはレースがある度、東奔西走、必ず出場し、そして勝ち、負けた。時には優勝の栄に輝いたこともあった。そして、そうだ、あれは何回目位に出場した時だろう。その時のことを今もありありと想い出すことが出来るのだが……。

 広々とコンクリートを敷きつめた競技場は、青々とした草地を片側に、片側は觀覧席である。一直線に幅広いレース・ラインがひかれ、そのくっきりとした白線が緑に溶けこむあたり、赤い旗が左右にゆっくりと振られていた。

 エンジンの調子をみるのに余念のない選手達が、7人、8人……。お互いが出すけたたましい音響も聴こえぬらしく、整備に打ちこんでいた。私はといえば、すっかり上気し、そしてガソリンの馴れた匂いにも、幼かった時の様に、胸は躍っている。弟に助手を務めて貰った。

 ――いいか俺のエンジンよ。頑張ってくれよ。勝とうぜ。やろうぜ。頼んだよ。

 その思いをこめて私は苦心の製作車の胴をぽんぽんと叩く。首をしめるジャケツが、何時までも頭から血を下ろしてくれない様だった。いつものことながら、膝がガクガクしている。

 暫時あった。出発合図が、ピーと鳴った……急に、静かになった競技場。低く車中にかがんだ私の眼に、前の硝子窓を通して、遠いゴールの標識が、ちら、ちらと隠顕して、誘っている風に見える。

 ……号砲一発、スタート!! 私はスロットルを一杯に開いた。車はすざまじい音響と、猛烈な煙を残し、素っ飛び出る。

 エンジンの響が私の内部で、するようだった。震動がびりびりとこたえるのに耐え、ハンドルを操作する。平べったいレース距離の端まで、形容すれば、車は走る雲の中にあった。100、……110……そして120キロ。スピードはぐんぐん昇る。

 だが、次の瞬間だった。私の車は二、三間もんどりうって、跳ね上った。アッと思う暇もない。瞬間の記憶に、一回転する世界の風景を見たと思った。130キロ以上の快速にあった時である。

 車から跳ね飛ばされた私は、地面に突きささるように落ち、そしてもう一度、叩きつけられた。それきりで私は、気を失ってしまった。

 意識が戻った時、顔面は湯をかぶったみたいに熱かった。ああ、生きていたのか。ほっとすると一緒に、虚脱した様に何も考えられなかった。

「弟は?」

「無事ですよ。……よくまあ……本当にお二人とも助かりましてヨ」

 微笑んで教える看護婦さんが、ありきたりの言い方だが、天使に見えた。白衣は病んだ人の心を慰めるものだ。

 私の負傷は、左顏面をぶっ潰し、右腕が肩から抜け、手首を折っていた。弟は肋骨を四本折った重傷であった。共に無事だったというのは幸運だが、人間は容易には死なぬものだと、妙なことを私はえらく感心した。そして、

「そんなことに感心する者があるか。呑気も程がある」

 とあきれられ、叱られもした。

 今考えても実に無茶をしたものだ、と私自身も懐しく、また滑稽にも考えられる、その頃の乱暴に生きた日々である。