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本田宗一郎が48歳の時に綴った「オートバイとレースへの情熱」(後編)

本田宗一郎が48歳の時に綴った「オートバイとレースへの情熱」(後編)

レースでは瀕死の重傷、街ではスピード違反

2017/08/20

source : 文藝春秋 1955年10月号

genre : ビジネス, 企業, テクノロジー, 経済

note

惚れて通えば……

 レース経験を経、また学問的な裏づけをつけながら、私は曲りなりにも、ピストン・リングの精巧度の高いものを作ることが出来るようになった。

 そして戦災、終戦を迎えるという、日本人すべての人々と同じ経験を経た。

 終戦後、私は綺麗に焼かれたのを機に、商人から足を洗い、内燃機関の技術研究所を建てようと考えていた。しかし、理想はともかく、混乱期に伴う貧困な社会の中で、霞を食べて生きているわけにもゆかない。

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 そこで考えついたのが、自転車にエンジンをつけて走る、例の、大抵の人々が一度は御覧になったであろう、バタバタである。軍部で使用していた発電機のエンジンが、沢山放ってあったのを見て、多量に買い占め、自転車につけて売り出して見たのである。

 闇屋の乗るものだとか、売用には適さぬとか散々に悪口を叩かれたが、案外に実績はよく、むしろ鰻上りによくなっていった。

「こんなガソリンの無い時代に、誰がそんなものに乗る」との批判には、常に、

「ガソリンの無い時代だからこそ、売れるのだ、統制されたガソリンの量では、到底自動車が走り得べくもない。しかし仕事の能率をあげることは、復興のためにも必須だ。だから少ないガソリンで距離を走れる、簡単なオートバイ(?)が要求されるのだ」

 と、常々から答えていた。

 目先が利く、商売上手だ、と批判も多いが、これも私に言わせれば、一つの創意なのである。国情にマッチし、しかも、一歩進んだものを考え、創造することは、発明だといってよいだろう。

 何の仕事にも言える事だろうが、これは簡単に出来るわいと考える人は素人であり、経験を積めば積む程、――本職になればなる程、難しくなってくる。そして真のエキスパート(熟練者)は、不可能の壁を打ち破るところに、喜びをもつものである。

 そしてその苦労は、真の意味に於ける苦労ではなかろう。それに打ちこんでいる時は、形容でなしに、親兄弟を忘れ、金銭を忘れ、名誉を、あらゆる世俗の野心を忘れるものだ。そして壁に打ち当った時、真の勇気が湧いてくる。

1958年に発売された初代スーパーカブ 写真提供:Honda

 昭和27年、私は150に余る発明工夫の特許獲得に対して、藍綬褒章を授与された。生きるために自分の好きなことに終始し、これといった貢献も未だしていないのに、と厚かましい私も些か面映ゆかったが、有難く頂戴することにした。

 授賞式の席上、高松宮殿下が、授賞者中一番年若なのに目をとめられてか、

「発明工夫というのは、隨分と苦しいんでしょうね。私には分らぬが……」

 と、懇ろなる言葉をかけられたが、私は分り易くと思い、こう説明申し上げた。

「全く恋愛と同じです。……苦しいといえば苦しく、楽しいと申せばまたこれ程楽しいものはなく……惚れて通えば千里も一里、人から見れば、よくもまあ夜も寝ずに苦労して、と思うでしょうが、本人にしてみれば、こんな楽しいことはないのです」

 殿下は私のおっちょこちょいな答弁に、妙な顏をなされていた。そこで私はこの話を妻にした。彼女はさも当然だという顔つきで、「殿下に恋の苦労なんて、そりゃ……」と、ここまで言うと、急にキッとなり、

「貴方は、またどこかでそんな苦労を……」

 私は藪をつついて蛇を出した恰好で、弁明これ務めねばならなかった。