ひとりとぼとぼと貧困街を歩き始めた
車を降りると、冷たい海風が頬を打った。なるほど、貧しい人の家が集まる場所にはそれなりの理由がある。風が強かったり寒かったり、水はけが悪かったり日が当らなかったりと様々だ。ブーツの紐を締めなおして顔を上げてもなお、イリヤは車の中だ。運転席側に回って、「行きますよ?」と言うと「どうぞ!」と彼は笑顔で言った。車を降りたくないらしい。
仕方がない。
話をしてくれそうな住人が見つかれば、イリヤを呼んで通訳をしてもらえばいい。僕はひとりとぼとぼと貧困街を歩き始めた。
人っ子ひとり見当たらない。悪人の襲来を察した西部劇の町のように、風が戸板を揺らす音、犬の吠え声だけが響いている。廃村のようで廃村でない。
直接家を訪ねるしかないか――。
適当に一軒の家を選び、朽ちつつある木製の橋でドブ川を越え、老いた番犬がこちらに気づかぬように抜き足差し足玄関口まで進んだ。
耳を澄ますと、家の中からテレビかラジオの音が聞こえる。
大きく息を吸い、「ズドラーストヴィチェ!(こんにちは!)」と呼びかけた。
番犬がこちらに気づいて猛烈に吼えたてる。
けれど家の中からは反応がない。ドアをノックする。集落中の犬が吠え始めている。しばらく待ったけれど応答はなかった。
背中に不穏な視線を感じながら
道へ戻ろうと振り返ると、通りの向こう側の家の窓に人影が見えた。
老いた女性がカーテンの隙間から射るような目でこちらを見ている。手には電話が握られ、誰かと話をしているようだ。
ゾッとして足早にその場を離れた。
せっかく人がいたのだから話しかければいいはずだけれど、目を見れば直感的にわかる。あんな明確な敵意を感じたのは久しぶりだ。
背中に不穏な視線を感じながら集落のさらに奥へと歩みを進めた。
しかしいくら歩けども人の姿は見当たらない。さっきの恐怖が何度も頭をもたげて、どこかの窓から見られているような錯覚が止まない。恐怖心を押し殺しながら、それでも順番に家の扉をノックする。
4軒目の扉を叩こうとした時だった。
遠くから嫌な音が聞こえてきた。サイレンだ。音はどんどん近づいてくる。
僕はバネが弾けるように駆け出した。
きっと窓から僕を覗いていた女性が警察に通報したのだ。
片方1キログラム以上もある極寒仕様のブーツのせいで、砂漠を走っているかのように体力を奪われる。
サイレンは容赦なく近づいてくる。集落の入り口へ辿り着いて目を疑った。
イリヤの姿が車ごと消えている。