捕まることは絶対に許されない
自分が場所を間違えたのかと思って周りを見渡すも、小さな集落の入り口はここ以外にはありえない。思えば彼は「ここで待っている」なんてことは言わなかった。そうは言ってもあの流れからして、ここで待っているのが普通だろう。
サイレンはもうすぐそこから聞こえている。
逃げ隠れせず、堂々と警察の真正面に立ちはだかって事情を伝えればそれで済むだろうか。いや、ここはロシアだ。
僕は意を決しドブ川を飛び越えた。金網の外側を走り、家の裏手に広がる雑木林に身を隠した。
木々の隙間から集落の入り口を覗く。さっきまで覗かれていた僕が今度は覗いている。気持ちを落ち着けなければいけない。深く息をすると強い異臭が鼻を刺した。自分の隠れた木立のすぐ隣に、公衆電話大の小屋が建っている。便所に違いなかった。なんてついていないんだろう。それとわかるとにおいがさらに耐え難いものに感じられてくる。汚れた空気で肺が満たされていく。
なんで法を犯してもいないのに、こんなことしなければならないんだ。
口の中が一気に渇いていくのがわかる。僕がしゃがんでいる場所は角度のきつい傾斜になっている。踏ん張っているのも辛くなってきた。
どれもこれも自分を取り巻く全てがストレスの源に思えてくる。
その時、警察の車両が集落に入ってきた。サイレンは消され、帰港する船のようにゆっくりと集落の奥へと進んでいく。
もうここにはいられない。
警察の車が一周してここに戻ってくるまで早くても5分――。
僕は雑木林の坂を駆け下り、集落の入り口を全速力で飛び出した。カメラのストラップが肩に食い込み、相変わらずブーツは足を引っ張る。けれど走るのをやめるわけにはいかない。
逃げると決めた時点で、捕まることは絶対に許されないのだ。
「そんなことは関係ありません。ここはロシアですよ」
元来た一本道を駆け上がる(不幸にもその道は急峻な上り坂だった)と、ほんの100メートルほど行ったところで路肩に寄せられたイリヤの車を見つけた。
開けられた窓からはタバコの煙が呑気に揺蕩っている。勢いよく助手席の扉を開け、バタバタと乗り込んだ。
「出して!」
と言うと、イリヤは驚いたような表情でタバコを咥えたままエンジンをかけた。
とにかくここを離れたかった。
集落から離れるにつれて呼吸が整っていく。気持ちもだいぶ落ち着いてきた。
「なんで動いてたんですか?」咎めるような口調で言うと、イリヤは両手を広げて「ほら、誰も捕まっていないでしょう」とむしろ誇り顔で言った。
確かに、撮影することはできなかったし駆けずり回って汗だくで精神的にも追い詰められたが、結果的には誰も捕まっていない。
「サイレンが聞こえたから車を動かしました。集落の入り口に車を停めていたら警察に声をかけられたでしょうし、車を置いて私も集落に入っていたら、ふたりとも尋問されたでしょう」
「でも、悪いことはしていないじゃないですか」
「そんなことは関係ありません。ここはロシアですよ」
ハハーッハッハッハ! イリヤはまた耳障りな声で笑った。
だけどきっと、彼の判断が正しかったのだ。