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「型を作るのは大変なんだ」と父がつぶやいた

 先日、100円ショップでプラスチック製の健康青竹を買った。健康サンダルのように隆起がついていて、踏むととても気持ちがいい。以前、西友の健康器具コーナーで、同じような青竹が1400円で売られていた。それが14分の1の値段で買えると知った時、私は一瞬の躊躇もなくそれを買った。それどころか、どうせ100円で買えるのだからと2本買ったのである。

 その1本を実家に持ち帰った。家族はすっかりそれが気に入り、かわるがわる踏みつけては「あー、気持ちいい」と能天気に笑っていた。父だけが一人、青竹を手にとり、何か感慨深そうに眺めていた。

「これ、型を作るのは大変なんだ」と父がつぶやいた。

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「これが100円だったら、型を作った奴には一体いくら入るんだろう?」

 うちは小さな町工場だった。幼い私の遊び場は工場だった。

 房総で漁師の6男として生まれた祖父は13歳で上京し、東京じゅうの町工場を転々としながら仕事を覚え、現在実家のある場所で独立した。その工場を長男である父が受け継いだ。私が小さい頃、つまり日本が高度経済成長に沸いていた頃には数人の工員のお兄さんたちが工場の2階に下宿していたが、1981年からは完全に父一人となり、そして1997年に閉鎖した。

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 業種は、町工場界隈の語彙でいうところの「金型屋」。様々な工業部品の金型を作ったり、あるいは旋盤やフライスでネジを加工する仕事を請け負っていた。工場は、子供にとってはおもちゃ箱のようなものだった。年子の姉や私は機械に触ることは許されなかったが、切り終わったネジにテープを巻いたり、それを古新聞で包んで木箱に詰めて数を数えたり、また砲金粉(旋盤で金属を削った時に出る金属の粉)を吹き飛ばすための空気銃で遊んだり、おびただしい数の、ピンク色の納品書の裏におえかきをしたり、意味もわからずに「納品」「請求」「決済」などのハンコをそこらじゅうにペタペタ押して遊んだ。

 それでも子供というのは勝手なもので、私はある製品の一工程しか担わない町工場には物足りなさを感じていた。最終製品がイメージできなかったからだ。私がイメージする憧れの工場は、百科事典で見たことのある巨大な鉛筆工場だった。私にとって故郷は、海でも山でも川でもなく、金属なのである。私は、製造業の子だった。

頭の中で金型の設計図を描いている

 父の目には、世の中のすべての物体が金型という視点で映っているらしい。居間でお茶を飲んでいる時、父はよくクッキーの缶を開けてプラスチックの箱を中から取り出しては、一人でプラスチック容器をひっくり返したり、容器の裏の突起に見入っている。お菓子におまけがついていれば目はらんらんと輝き、「こりゃあすごい手間だ」「ずいぶん不良も出しただろうな」と感嘆し、頭の中ですでに金型の設計図を描いている。

 そういう金型屋気質はどこか自分にも遺伝していて、机の上に並ぶすべての製品──ペットボトルから消しゴムからノートからペンにいたるまで──が、どんな工場で作られたのだろうと考えるのが好きだ。そして自分が小さい頃、ボイラーや業務用湯沸し器のボルトにテープを巻いた記憶がよみがえり、この製品が作られた工場はどんな工場だったのだろうと想像する。