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「オウムと何が違うんだ」カルト村で育った私が『地下鉄サリン事件』から25年目に思うこと

2020/03/20
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 1995年3月20日……前年の猛暑の影響でスギ花粉が大量に飛散したことにより急に花粉症を発症してしまった大勢のお母さんたちが、気持ちよく晴れ上がった空を見上げながら布団を外に干そうか干すまいかと悩んでいた月曜日の朝8時頃――。

 東京の地下鉄車内で同時多発的に化学兵器がまかれるという、世界でも例を見ない無差別テロ事件がおこった。神経ガスであるサリンにより、現在までに14名の死者と6000人以上の重軽傷者を出している『地下鉄サリン事件』である。    

現場となった地下鉄のホームで倒れる人々 ©AFLO

 昨日3月19日には、 サリン中毒による低酸素脳症で、25年にわたって寝たきりの闘病生活を続けていた浅川幸子さんが亡くなっていたことが発表された。このニュースを知って、改めてとんでもない事件によって大勢の人たちが巻き込まれたのだなと、その恐ろしさを痛感した。

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 けれど、事件当時の私はというと、正直、その実感があまりなかった。

カルト村で生まれて

 その頃私は、東海地方に本部をおく『所有のない社会を目指す村』で暮らしていた。両親は大学生の時に大学の友人を通してその村を知り、村に入ったあと知り合い結婚したので、間に生まれた私は生粋の「村生まれ・村育ちの子供」だった。

 その村には、子供は親と離され、数人の世話係と共に子供だけの宿舎で共同生活をするというルールがあった。義務教育である中学校までは、村の外のいわゆる「一般」の学校へ村から通うことができたので、当時中学2年生だった私も、村で寝起きし日中は村のバスで近くの中学校へ通う日々を過ごしていた。

 村の子は自由にテレビを見ることができず、お金も持たせてもらえず、学校以外の時間は全て村の中で過ごしていたため、ほぼ外界から遮断されていた。ただ食後に憩うロビーには新聞が3紙置いてあったし、通っている中学校ではお弁当の時間に教室のテレビをつけてくれたので、それらを通して「村の外の世界」を見ることができた。

「地下鉄」「駅」「毒」……遠い国の出来事のよう

 地下鉄サリン事件を知ったのも新聞だった。生まれた時から村で暮らしていた私は、電車にすらほとんど乗ったことがなかったため、紙面に踊る「地下鉄」「駅」「毒」という言葉に現実味を感じることができず、どこか遠い国の出来事のように捉えていた。

事件を報じる新聞紙面

 しかしその後連日のように新聞で報道された主犯とされる教祖の写真を見ているうち、私はあることに気がついた。

(この人、鈴木先生に似てる……!)