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 さらにバブル崩壊後、表経済の苦境は裏社会である暴力団業界にも直結し、シノギがバッティングすることも少なくなかった。

 当時の山口組は、渡辺の出身母体で桑田兼吉が組長を務めていた最大組織の山健組と、のちに6代目山口組組長となる司忍の弘道会の2団体が「2大派閥」と称されていた。さらに、若頭の宅見を輩出している宅見組。渡辺の側近で親衛隊を自任していた中野太郎が率いる中野会などが有力組織だった。

「警察の取り締まり強化、相次ぐ損害賠償請求訴訟などで次第に渡辺が動揺するようになり求心力が失われていった。当時の山口組の組織運営は、桑田、宅見、司の3人の、いわば“ニューリーダー”集団が行うようになった。桑田でさえ渡辺に対して懐疑的な見方をしていた」(警察庁組織犯罪対策部幹部)

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 内部で隙間風が吹き始めたころ、白昼堂々の衝撃的な事件が発生した。1997年8月、神戸市内のホテル内の喫茶店で宅見が射殺されたのだ。襲撃したのは中野会系の構成員らだった。渡辺の意をくんだ犯行とされた。喫茶店にいた男性歯科医に流れ弾が命中し死亡するという許しがたい被害も発生し、山口組は社会から大きな非難の対象となっていった。

 中野会は後に絶縁処分され、渡辺は指導力を失い、山口組は迷走を続ける。宅見死亡後の山口組は8年間にわたり若頭が不在となる。

6代目山口組組長の司忍 ©時事通信社

異例のスピード出世を遂げた高山

 宅見が殺害された1997年の年末、山健組の桑田が銃刀法違反容疑で逮捕される。さらに弘道会の司も銃刀法違反容疑で逮捕され、最高幹部が不在となる中、5代目組長の渡辺は2004年11月に「休養宣言」をして山口組の運営から事実上、手を引いてしまう。

 そんな機能不全状態の組織の中に現れたのが高山だった。高山は05年3月、2代目会長として弘道会を継承。4月には「直参」と呼ばれる山口組の直系組長となった。