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 当時を知る前出の警察庁幹部は、高山について、次のように指摘する。

「高山は直参となる前までは、弘道会の若頭だった。言ってみれば『枝(2次団体)のカシラ』程度ということになるが、『高山』という名前は誰もが知っていた。ただの枝のカシラではなかった。司とともに群雄割拠の名古屋を中心とした中京地区を平定した“武闘派”ということだけでなく、経済ヤクザとして資金力があるということでも有名だった」

 高山が直参に就任して1カ月あまりが経過した5月には、保釈されていた司が5代目山口組若頭に就任。空席が8年ぶりに埋まったことになる。

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警察は暴力団の取り締まり強化を続けている(写真はイメージ) ©iStock.com

 司が若頭となると、すぐさま6月には高山を若頭補佐に引上げて、後の「弘道会支配」「名古屋支配」と呼ばれる体制の布石を打ち、7月には渡辺が引退を表明。8月には司が6代目組長を継承、高山は若頭に就任し、前例のない同じ組織の出身者で組長と若頭のツートップを占めるという人事を打ち出した。

 カリスマと呼ばれた田岡一雄の3代目体制では、山健組の山本健一が若頭を長期間務めた。4代目体制時は竹中組の竹中正久が組長に、若頭は豪友会の中山勝正が就任、5代目では山健組の渡辺が組長、若頭は宅見組の宅見勝だった。トップとナンバー2を別の組織から就任させることで、組織内のバランスを保つことが慣習化されていた。

「司・高山体制」が急速に整備されていくのを内部で見てきた山口組幹部は、次のように振り返る。

「弘道会を継いで本家の直参になってから、あっという間に(若)頭補佐になった。さらに短期間で(若)頭にまで上りつめた。これは6代目(の司)が側近の高山を引き上げておいて、将来、様々な問題が起きても強力な体制で押さえつける意図があったのは間違いない。それまで内部対立から大きな抗争事件が起きてしまった教訓もあっただろう。反乱を起こしそうな一部の幹部に対する先手だった。これは『新生山口組』を作り出したようなものだった」

国粋会「山口組加入」の衝撃

 山口組内部で“革命的”ともいえる組織変革を断行した司と高山はさらに、山口組から外に向かって手を打つ。

 6代目山口組組長に司が就任してから1カ月しか経過していない05年9月、暴力団業界だけでなく、警察当局も耳を疑うようなビッグニュースが駆け巡った。関東の老舗ヤクザと称され、名門博徒とも呼ばれた指定暴力団「国粋会」が山口組に加入したのだ。国粋会会長の工藤和義は司の舎弟盃を受けて最高顧問として迎えられた。

 国粋会を迎え入れた山口組の狙いについて、前出の警察庁幹部は、「東京の銀座や赤坂、六本木などシノギが大きい繁華街となっている一等地について、住吉会への貸ジマの返却を求める目的だったはずだ」と指摘する。

 元々、暴力団業界での歴史が古い国粋会は銀座など都内各所の繁華街に縄張りを持っていたが、勢力を拡張してきた指定暴力団「住吉会」に縄張りを貸し出すことで賃料を受け取っていた経緯がある。縄張りであるシマを貸していたことから、「貸ジマ」と称していた。