「100年の歴史のある山口組で、長期的な視点で戦略を考えた人物は3人いる。1人は3代目組長の田岡一雄。続いて5代目若頭の宅見勝。そして、6代目若頭の高山清司だ」

 そう指摘するのは、長年にわたり組織犯罪対策を担い、山口組を厳しく取り締まってきた立場の警察庁幹部だ。それだけ手強い相手だということだろう。

 6代目山口組の若頭就任後、圧倒的な「高山支配」を築き上げたてきた手法とは、どのようなものだったのか。

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6代目山口組若頭の高山清司 ©共同通信社

直参組長の経済的負担が増えた

「6代目山口組」組長に司忍が正式に就任し、高山清司が若頭となったのは2005年8月のことだ。

 しかし、新体制が動き出した矢先の同年12月、銃刀法違反の罪で懲役6年の実刑が確定した司が収監されてしまう。高山は山口組ナンバー2として、組織の運営にあたることになり、当初は「司・高山体制」と称されたが、司収監後は事実上の「高山支配」へと移行していくことになった。

 6代目体制が発足した当時、執行部には5代目体制時の最高幹部たちが引き続き名を連ねていた。

 5代目体制時の最高幹部で最も大きな存在は、若頭補佐を務めた山健組組長だった桑田兼吉だった。桑田は6代目体制発足前に銃刀法違反容疑で逮捕され裁判が続くなか、山健組組長の座を井上邦雄(現・神戸山口組組長)に譲っていた。

 桑田は若頭補佐という立場以上に、山口組内だけでなく他の組織からも存在感の大きい暴力団業界全体の重鎮として知られていた。その桑田は2007年4月に病死する。