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微妙な雰囲気が漂っていたのは間違いなかった。後藤は山口組本家で開催される定例会も体調不良などを理由に次第に欠席するようになる。古参幹部の中には、こうした後藤の批判的を通り越した反抗的な態度に同調する動きも少しずつ現れてきた。
見え隠れする不穏な動き、信憑性が疑わしい情報が流れ疑心暗鬼が募るなか、週刊新潮の記事が出たこともあり、6代目執行部の方針は決定した。
2008年10月、山口組は臨時の最高幹部会を開催し後藤の除籍を決定。その後、高山ら山口組執行部を痛烈に批判するとともに後藤を擁護する「怪文書」がばらまかれ、内部の溝を深める動きも表面化した。
高山はさらに十数人の古参幹部を絶縁や除籍とし、5代目時代から名を連ねた最高幹部が大量に粛清されることになった。
前出の山口組幹部は「後藤さんは直参が長く座布団(地位)は自分の方が高いと思っているから、新執行部にとって後藤組の存在は目の上のタンコブ。ゴルフコンペは後藤組追放の絶好の口実だった」と内情を明かす。
立ちはだかった警察
「高山体制」が確立することになったが、ここで山口組の進路に大きく立ちはだかったのが警察だ。
当時の警察庁長官、安藤隆春は「弘道会の弱体化なくして山口組の弱体化はなく、山口組の弱体化なくして暴力団の弱体化はない」と弘道会を名指しして集中取り締まりを全国警察に指示した。その後、高山は2010年11月に京都府警に恐喝容疑で逮捕され、13年3月には京都地裁で懲役6年の実刑判決が下る。14年6月には収監された。