3月29日、コメディアン・テレビタレントの志村けんが、新型コロナウイルスによる肺炎のため死去した。70歳だった。
25日にコロナウイルス罹患・入院の報道があってからのあまりにも早い逝去に動揺する声が、メディアやインターネット上に広がっている。この動揺は、現時点でまだ未知の部分が非常に大きいコロナウイルスの危険性だけでなく、志村けんというキャラクターの突然の消失を、人々がうまく受け止められていないことに起因している部分が大きいのではないだろうか。
志村は高校卒業間際の1968年より、ザ・ドリフターズの付き人=ボーヤとして、芸能界の世界に足を踏み入れる。その後紆余曲折を経て74年にドリフに新メンバーとして加入。76年に『8時だョ!全員集合』内で歌った「東村山音頭」がウケて以降は、ドリフの既存メンバーをしのぐ人気を獲得していく。
『全員集合』終了後も『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『志村けんのだいじょうぶだぁ』『志村けんのバカ殿様』など冠番組を次々とヒットさせ、70年代後半から80年代にかけての志村は間違いなく、日本で最も人気・知名度の高いコメディアンの一人だった。
同世代のたけしと異なる「キャラクター性に対する姿勢」
志村がスターになってから数年後、漫才ブームのなかで大きな人気を集め、80年代以降にビッグになったコメディアンとして、ビートたけしがいる。後年志村とたけしはテレビ番組で共演しているが、彼ら二人の個性の差異として、キャラクター性に対する姿勢の違いを挙げることができるだろう。
人々が志村を連想したときに必ず思い浮かべるのは、「バカ殿様」「変なおじさん」「ひとみ婆さん」など、コント・キャラたちだと思うのだが、ビートたけしは80年代には「鬼瓦権造」「タケちゃんマン」等いくつかのキャラを生み出したものの、90年代以降「鬼瓦権造」以外のキャラを継続的に身にまとうことは殆ど無くなり、散発的にコミカルな仮装をするだけになっていく。
また、たけしは「昭和四十六年 大久保清の犯罪」(83年、TBS)でそれまでの道化的イメージを裏切るシリアスな犯罪者役を演じ、多数のエッセイ著作で自らの世界観を開陳し、90年代以降には映画監督業を成功させ、当初は漫才師として認知された自身のイメージをどんどん多重化させていった。
対して志村は、コメディ以外の仕事の数が基本的に非常に少ない。人々が思い浮かべる「志村けん」のイメージには重層性が無く、バカ殿や変なおじさんの顔がフワフワとそこに漂っている。