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 そして2020年3月29日、志村けんが死んだ。今度は噂ではなく本当だった。日本中の人々が彼の死に直面して、悲しむより先に驚いている。いや、驚くというより、呆然として言葉を失っている。志村けんが死ぬ。そんなことが本当にあるのだろうか。個人的にも「当然あるはずのものがそこにない」という喪失感は、ほかのどの芸能人が亡くなったときにも感じたことがないものだった。

「志村離れ」を経て、人は大人になる

 ここで1つ懺悔をしておきたい。私は「志村離れ」をしていた時期があった。志村は私が物心ついた頃には当たり前のようにテレビの中にいるスーパースターだった。小学生の頃に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』『志村けんのだいじょうぶだぁ』を毎週食い入るように見て、志村の繰り出すギャグに笑い転げた。

『加トケン』では加藤茶と志村が探偵役を演じるコントが毎週放送されていた。彼らは同じ事務所で共同生活をしていて、2段ベッドに寝て暮らしている設定だった。当時の小学生にはそれが妙におしゃれに見えて、その生活に憧れていた。

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©文藝春秋

 ところが、小学校高学年になったあたりから、少しずつ志村の笑いに物足りなさを感じるようになってきた。そして、新しく台頭してきたウッチャンナンチャンやダウンタウンの笑いを魅力的に感じるようになった。彼らの方が若くて勢いもあり、やっていることも新しくて格好良く見えた。小5~小6というのは背伸びしたくなる年頃だ。『コロコロコミック』が幼稚に見えてきて『少年ジャンプ』に惹かれる時期とちょうど同じだった。

 ドリフや志村を見て育ってきた世代の人間の多くは、同じようなことを経験しているのではないだろうか。「志村離れ」を経て、人は大人になる。その後、ダウンタウンの洗礼を受け、私を含む当時のお笑い好きの多くは「ダウンタウン信者」になっていった。

志村のコントは「超一流の職人芸」だった

 だが、大人になって改めて志村のコントを見ると、その純粋なクオリティの高さに驚かされる。単純に思えていたコントも、実際にはちょっとした表情や動きや間の取り方によって成立している超一流の職人芸だった。

『8時だョ!全員集合』の一コマ ©共同通信社

 今の若手芸人のコントは、普通の見た目の人間が少しだけおかしい人を演じるようなものが主流になっている。だが、志村のコントでは、一見しておかしいとわかるクセの強いキャラクターが、全力で間の抜けたことをする。そこに一切の迷いがない。志村はバカを演じてバカをやることに誇りとこだわりを持っていた。