志村けんさんが亡くなった。享年70。死因は新型コロナウイルスによる肺炎……。小学4年生で志村さんの最初のビッグヒットギャグ(歌謡)である「東村山音頭」を原体験した身としては、全然信じられないことだ。
関係者、ファンを問わずメディアやSNSには衝撃と哀しみの声が躍ったが、筆者が共感したのは次の二つ。ひとつは「このような亡くなり方は志村さん“らしくない”」という声。今ひとつは「『バカ殿』なども毎回観ていた訳ではないが、考えただけで涙が出てくる。じつは空気のように“いて当たり前の存在”だったことに気づいた」というもの。特に後者は志村さんを知っている人々、全員の心の声だろう。
志村けんさんの“功績”や数々の伝説などいちいち書いていてはキリがないので、ここでは「東村山音頭」世代として、志村さんからいただいた大切な想い出について幾つか書かせていただこう(『だいじょうぶだぁ』、『バカ殿』世代の方はその視点でどうぞ)。
「東村山音頭」の大ヒットで一躍子供たちのスターに
当時、先輩・荒井注さんの脱退を受け、替わりにリーダー・いかりや長介さんの付き人からザ・ドリフターズの正規メンバーとなった志村さんは、最年少(24歳)ということもあり、加入後の1~2年は、ご本人もそうだったろうが、視聴している側の目にもどこか居心地が悪そうに思えた。
その頃のドリフは、加トちゃんこと加藤茶さんの「ちょっとだけよ。あんたも好きねぇ」などのギャグが特大ヒットを飛ばし、活動母体番組『8時だョ! 全員集合』(’69~’85年)が平均視聴率27.3%を弾き出していた時代。いつの時代もそうだが、ヒットギャグのないお笑い芸人に世間は冷たい。だが世間というか、特に子供たちはゲンキンなもの。「東村山音頭」が大ヒットするや一斉に志村さんに飛びついた。それこそ「加トちゃんの時代は終わった、これからは志村の時代だぜ」なんて言う輩まで現れ、加トちゃん信奉ガキと小競り合いになった。